卒業と訴訟への葛藤 No.110
卒業製作
美大の最後の年も、最後まで日本画の授業を受けさせては貰えず、大学事務や日本画教員達は、何ひとつ約束を守ることなく、僕は卒業を迎える。
入学当初に、ある教員からは『君は、大学で学ぶ最低限の力さえない』と決めつけられ、まわりの教員も生徒も、みんなその前提で動き、最後までそれだけで押しきられてしまった。
大学の指導では『悪いところを直し、良いところをのばす』という方針があるそうで、『高木には、のばすような様な良いところはない』とか『芸術は人の感情こそが大切なものであるから、生意気な生徒の作品が例え良い作品だったとしても、悪く見えてしまうのは仕方のないことだ(だから機嫌取りをしろ)』という言葉も、実際に大学生活の後半まで言われ続けてきた。
そういう教員達の考え方というのも、教員達自身に力がないから、そういう理屈に行き着くのだと、僕は思っている。
仮に、僕にはこの美術大学の入試を通過はしする最低限の力さえ持っていなかったとしても、入試を設けて採点し、通過させた大学の教員達には、生徒に対して学ぶ環境を与え整える責任や職務というものがある。
そんな当たり前に思う様なことでも、芸術世界の権威主義や利己主義的な考えの強い組織にいては、何かと見失ってしまうらしい。
そういうことの現れが僕の問題であり、後に起こる日展改組なんかも、根本は同じである。
日展改組についての記述は、今回は省くことにしたので、興味のある人はネット検索などしてほしい。
僕は最後の課題の制作時まで、担当教員であるK先生(日本画教員・男子)に前向きな話し合いを求め続けて、そのK先生も話し合いは取り合わずに暴言ばかりで返されてきた。
そのやり取りを、僕は毎回大学事務へ報告して、善処を求め、いつも大学事務に対しても怒ってばかりいた。
それでも何の善処もされず、教員や事務員達も開き直るだけだった。
4年生の最後の課題は、卒業制作と言われるもの。
卒業制作展という卒業生の作品を展示する展覧会があって、その為の作品を制作する。
その課題についてのやり取りでも、僕は「何で課題の出題内容について、教えてくれないのですか」と言っては、K先生(男子)と怒鳴り合いをしていた。
その卒業制作の課題の提出期限が迫ってきた頃、僕はようやく、その課題に手をつけ始められた。
提出期限が過ぎ、図録の写真撮影をする時になっても、僕だけがまだ制作をしていて、その課題を終わらせられずにいた。
提出期限から一ヶ月以上は経過して、皆がのんびりと卒業を待つばかりの時期に、僕の最後の課題は終わり、K先生(男子)の処に持っていった。
普通に考えたら、単位など貰えない状態にあったけれど、僕はこのことで何度も大学事務へ怒ってきた。
こんな状態に僕を追い込んだのは、日本画の教員達であり、僕はこういう状態にならないようにと、3年生の年度末から善処を求めていた。
それで何の善処もされていない。
これでもし卒業できなかった場合、僕は大学を訴える、ただでは済ませない、等と何度も事務員に怒鳴り付けた。
僕の課題の提出は、提出期限処か、単位認定を確定させる日も過ぎていたかもしれない。
僕はK先生(男子)の処へ、最後の課題を持っていったが、『最後の課題を持ってきました』としか言うことはなかった。
これで『提出期限は過ぎているから、単位は認定できない』等と言われた場合、僕はK先生(男子)に手を出してしまうのではないか…そこは我慢して、訴訟に踏み切るべきだ、そんなことを自分に言い聞かせていた。
そこでK先生(男子)は、こう話す。
『この大学の課題では、自由に絵を描いてよかったんだ。
変な意味ではなくて、何度も君(高木)が言っていた通りの意味で、生徒の意思で、描きたいものを絵がいよかったんだ。』
僕『そうですか。』
この後、『制作した課題をどこそこに持っていってくれ』とか『卒業制作展の設営では、○時に来い』だとか、そんなことを言われた。
僕は愛想なく『わかりました』とか『はい』という返答ばかりをして、怒鳴り合わない会話のやり取りが、3年振りくらいに出来たのだと思う。
この時のK先生(男子)の言葉を、どう受け止めるべきだったのだろうか。
何の意味もなく、ただ伝えなければならないことを伝えてきただけなのか。
K先生(男子)の『自由』についての言葉は、教員達は僕に対して、間違ったことを教えてきたことを認めたという意味合いなのだろうか。
或いは『最後くらい本当のことを教えてやる』といった、僕を馬鹿にした意味合いの言葉だったのだろうか。
どうであれ、僕には今更の話だった。
せめて半年前や数ヵ月前、こういう言葉をかけてくれたなら、そこから課題の細かな話に入っていけたではないか。
そうなっていたなら、僅かな期間でも、教員と生徒としてのやり取りが出来たではないか。
絵を志す者どうしとして、一度くらいは、絵について語り合えたではないか。
最後の最後にそんなことを言ってきても、学ぶ為の環境を与えられず、何も教えて貰えなかった事実は変わらないではないか。
こんなやり取りになる前、最後の課題を提出する場になっては、もう課題や絵についての会話など諦めていた。
そういう関係になって時間切れを迎えた上でのK先生(男子)のこの言葉であるから、そこには何の意味もなかったと思うべきだろうか。
卒業式
全てが終わり、卒業式を迎える。
僕にとっては、最後だからと特別なことは何もなかった。
卒業を喜ぶ気持ちもなければ、最後まで絵について語り合える友人や知人も出来なかった(でも、彫刻科の友人はいた)。
日本画の教員達とは、先生と生徒としての関係も気付けなかった。
卒業後のことも、何も準備できなかった。
絵について、実技の教員達から学んだこともなく、頑張ろうと足掻いていた時間を、ひたすら嘘と嫌がらせで台無しにされただけだった。
形式として卒業式を終え、僕には会話をする知人や友人もなく、ただ帰るだけだった。
この後に、場所を変えて同窓会が開かれるのだけれど、そんなものは僕とって苦痛でしかなく、参加などしない。
そうして、僕は卒業式の会場を去っていく。
その帰る場になって、K(男子)という同級生に、後ろから小石らしきものをぶつけられた。
K(男子)のまりには、5~6人の男女がいる。
そのことで、僕は彼等に殴りかかろうかと、数秒間の葛藤をする。
でも、僕は何も喋らず、何もせずに黙ってその場を去った。
Kはまわりの同級生達に「あいつ(高木)は、これだけのことをされても、何も言ってこないんだぜ」と語り、その場にいた5~6人の同級生達と大笑いしていた。
仮に、僕がそのK(男子)やその仲間達と殴り合いの喧嘩をしたとしても、その場を納める大学の教員達は、僕だけを悪者として扱い、僕だけの卒業を取り消す処分としただろう。
卒業式から自宅へ帰る途中、後頭部が冷たいと感じて何気なく触ってみると、そこには傷が出来て血だらけになっていた。
頭から血を流し、堪えながら去っていく僕の姿を、同級生達はただ笑っていた。
このことを大学事務へ訴えたとしても、その証拠となるものさえないのだから、また日本画の教員達は彼等を庇い、対処らしき対処もしないだろう。
最後の最後まで、腹立たしい気持ちで一杯だった。
訴訟への葛藤
裁判という考えに行き着くよりもずっと前から、同級生のToやS先生等から「証拠がなければ話にならない」という開き直りの発言を何度も受けてきた。
そういう経緯もあり、僕は日本画の教員達とやり合っている場面(僕の話しかけから、教員達の暴言の出てくる迄の流れ)を何度か録音した事もある。
特にK先生(男子)の場合は、僕側から
『なぜ課題の出題内容程度のことを教えてくれないのですか?』『なぜ約束を守ってくれないのですか?』
といった言葉をひとつ発すると、そこは怒鳴り散らしてくるばかりになり、その怒鳴り声で僕の言葉も打ち消そうとする。
そうして、僕も怒鳴って自分の主張をして、怒鳴り合いになる。
それが毎日・毎回のことであるから、そうなると予想して録音することも、割りと簡単であった。
でもそこは、僕のお人好しさが強く出ていて、そういう録音をして作った証拠を利用して取引する様な行為や考え方が、前向きな話し合いの障害となると考えていた。
だから極力、そういった証拠等は最後の切り札として頼らずに、何とか話し合いをしようと心がけてきた。
そのせいもあって、当時に録音したものは僅かだった。
裁判という問題を考える以前に、当時の僕は、裁判の勝手など全く知らない。
それでも、弁護士さんに相談したり依頼してから、必死になってやれることをやっていけば、何とかなるのではないかと考えていた。
事実を基にした話し合いさえ出来れば、それ等に掛かるお金や時間等はどれだけ掛かっても良いと考えていた。
用意する証拠等の点では、録音したものが少しだけあって。
まだ大学に在学していた頃なら、僅かな言葉のやり取りだけで怒鳴り合いになっていたので、訴訟を決意してからでも、改めて証拠の収集も出来るような考えでいた。
(実際に訴訟を起こしていたなら、そんなものでは、証拠は不足していただろう。)
僕が大学に多くを求めていたつもりはなく、前向きな話し合いがしたかっただけなのだが、それが一番の難しい問題だった様だ。
そういう部分での解決が出来ないのだから、慰謝料とか授業料の返還とか、そういうものを求めなければならないのだろう…でも、僕がこの当時に望んでいたのは、そういうものではなかった。
具体的に『裁判を起こす』と考えると、ずっと不安に感じる何かがあった。
その『何か』は、僕自身のなかにあるモラルというか、世間知らずでお人好しによる馬鹿さ加減なのだ。
仮に、実際に裁判等をはじめてしまえば、世間には大学の悪い噂は拡がるだろう。
僅かながら、お世話になった人達や仲良くしてくれている一部の生徒達に、迷惑をかけたくない気持ちこそが大きい。
僕も必死にならなければならず、その為に、誰かの不都合や不幸なんかにも目をつぶり、事実と僕の権利等を主張していくことになるだろう。
そうなると、洋画のM先生や彫刻のK先生等が語っていたような『くびをくくらなくてはならなくなる』とか『所属している美術団体やこの美術大学からも追い出され、生きていけなくなる』といった話が、現実味を帯びてくることになるかもしれない。
そうは言っても、その話は飛躍しているような気もしていて、そんなことにはならないだろうという思いはあった。
でも、それは僕がそう思いたいだけで、実際にそれらしいことが起こると考えた場合、どうだろうか。
『お前の人生なんか、どうなろうと俺達のしったことじゃない!』
そんな言葉を何度もかけられてきた僕だけれど…僕が訴訟に踏み切ることで、彼等やそのまわりの人達の人生は滅茶苦茶になると考えると、踏み込む決意が出来なかった。
踏み込みたくないと考えているせいで、僅かながらお世話になった人達の人生まで、滅茶苦茶にしていく予想をしてしまう。
この頃の僕の心のなかでは~寝ても覚めても、頭のなかには誰かの悪意が響き渡っていて、母や自分が命を絶つ夢を頻繁に見て、涙を流しながら目を覚ましたりする。
そういう思いを僅かでも、彼等にも経験させたい気持ちと、そんな思いを経験させたくない気持ちとで、いつまでも葛藤していた。
幾ら葛藤しても、誰かを不幸にすることで気を張らすような生き方をしてはいけないと、そういう理屈に行き着く。
その考えに行き着いているのに、いつまでも同じ葛藤を繰り返してしまう。
何度も、僕は自分に『そこは踏み出さなきゃダメだろ』と言い聞かせながら、それがいつまでも出来ない。
卒業したのだから、気持ちが風化するのを待とう、という考えも持っていた。
今は腹立たしいけれど、その気持ちや悩みも、時間の経過で消えていくだろう。
だから、今は堪えよう…そう自分に言い聞かせていても、人の悪意が頭のなかで連鎖する。
S先生とA先生(女子)が、何度も僕にかけてきた言葉が、僕の頭のなかでこだまする。
『これは終わった(解決した)話だ』とか『いつまでも過去の話を持ち出して、性格がしつこい』といった言葉が、僕の考えを遮り、挑発してくる。
ただ時間が経過しただけの問題を『解決した話だ』と語ることで、わざと第三者に誤解させようと発し続けられた言葉だ。
この言葉の数々が、忘れようとしていることを、いつまでも忘れさせてくれない。
結局はこんな考えや言葉が、大学を卒業して何年も経過しようと、頭のなかでこだまし続けていくのだけれど。
当時の僕は楽観視しようと努め、この環境から離れさえすれば、そのうちに殆どのことを忘れ過去の問題に出来ると信じたかった。
とにかく、いつも色んな考えが頭のなかを過っていたけれど、そんなものは数年くらいで風化するだろうと、自分に言い聞かせていた。
裁判に関しても、堪えて気持ちを風化させること(提訴しないこと)が、長い目で考えた場合に、自分にとってのプラスになると信じたかった。
裁判という、誰かを不幸に陥れる可能性を秘めた行為への思いも、踏み出せないまま、早く忘れようと努めながら、その後もずっと忘れられずにいた。
だから、画学生だった頃を思い返すと、このブログを書いている今でも、後悔の念ばかりが沸いてくる。