絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

大学で取得できる資格・免許1 No.105

卒業後の進路

 大学を卒業した後は、他校の大学院へ進学したいと考えていた。

 大学院までの授業料や生活費迄は、母は出せないと1年生の頃から言っていたから、その分は僕自身でどうにか働いて稼ごうと考えていた。

 今にして思えば、無謀なことを考えていた訳だけど、当時にはその意思があった。

 大学では、絵(実技の授業)については何も教わることもなく終わりそうだが、大学院へ進学して環境も変われば、今度こそ色々なことを学び、一緒に絵を頑張る友人も出来るだろう。

 結論から先にいえば、実現しない当時の僕の希望だった。

 大学院への進学は、大学の1年生の時から考えていたけれど、母とのやり取りからは、就職の方を現実的に考えなくてはならないと感じていた。

 この考えは、どちらも大学生活の流れから崩されていく。

 

 大学での就職説明会というのがあって、大学側が就職活動に関する指導や、大学へ来る求人への斡旋等もする。

 その大学での就職説明会が、大学の3年生の半ばか後半あたり(記憶がはっきりしない)にあった。

 僕は日本画教員から、大学(日本画校舎)へ出てくること禁じられていたので、その辺りの話を耳にする機会は失っていた。

 大学の掲示板には、就職説明会の日程の掲示もしていたが、大学の掲示板は時折見てはいても、就職説明会の掲示場所までは目を向けていなかった。

 そういうものに目を向けるべき時期の僕は、他校の再受験ばかりを考えていた頃。

 実際にその就職説明会の掲示を見たのは、その説明会自体が行われた日の何ヵ月も後だった。

 もし、その就職説明会の掲示を適切に見ていても、S先生から「芸術になんか拘わって生きていけなくしてやる、覚悟しておけ。」と怒鳴られていた程の僕であり、何かと悩んでいただろう。

 4年生になってから、大学事務を通した日本画の教員達との話し合いが控えていた。

 だから、日本画の教員達との関係が多少でも改善されたら、就職関係の話も、大学事務へ持ちかけて相談するつもりでいた。

 それでも現実は厳しくて、日本画の教員達は、話し合いをはぐらかして逃げる。

 問題の善処どころか、仲裁役で間に入ってきた彫刻のK先生からも目をつけられる。

『これ以上、日本画の先生と揉めたら、大学を通した就職なんかも出来なくなるぞ』

 という忠告を受けながらも、僕はK先生(彫刻教員)に反論して、それ以降は全く相手にされなくなった。

 僕には、卒業後のことで焦り、不安になる気持ちもあった。

 4年生の担当教員であるK先生(日本画教員・男子)は、いつまでも課題の内容説明や和解を拒み続け、僕は「これではいつまで経っても、卒業後の準備が出来ないじゃないですか」と主張したことも何度かあった。

 それに対してのK先生(日本画教員・男子)は、「お前(高木)の人生なんか、どうなろうと俺の知ったことじゃない」と怒鳴り散らすだけだった。

 

 僕のなかでは、他校の大学院への進学を希望していて、それがダメだった場合には、少しでも絵に関係する会社への就職を考えていた。

 大学院への手続きに関しては、時期的に卒業間近なので、卒業間近までは考えも保留にしてよいだろう。

 だから、大学院の入試が迫るまでは、就職活動をするべきだったのだろう。

 しかし、その様には動けなかった。

 新学期からの1~2ヶ月は、話し合いを先延ばしにされるのを待ち続けていて、僕が課題の内容についての質問を持ちかけただけでも、K先生(男子)とは話にならず、怒鳴り散らされるばかりだった。

 途中からは、K先生(男子)とのやり取りを諦めて、下図相談などの本来は許可を貰うべきものも貰わないまま、課題に手をつけるのだが、資格や免許の準備や実習は始まっていく。

 

 当時の頭のなかでは、こんな選択肢があった。

『課題とK先生(男子)とのやり取りだけに集中し、他の事柄は全て放棄する。』

『卒業後の為の単位取得など、全ての問題を諦めて、大学を相手に裁判を起こし、そこに集中する。』

『卒業や資格や免許の取得に集中し、その合間に日本画の教員達との和解を試みる。』

 どれを選択しても、就職活動に手をつける余地などなかった。

 日本画の教員達の全員は、僕の課題問題を無視し、わざと困らせようと動いている。

 1~3年生の経験からも、日本画の課題をこなすだけでも、困難であることが目に見えていた。

 この事に、大学事務はいつも『善処する』とは言うけれど、問題を先延ばしにする以外のことはしてくれなかった。

 僕が選んだのは『卒業や資格や免許の取得に集中し、その合間に日本画の教員達との和解を試みる。』というもの。

 世間知らずでお人好しでバカな僕は、教員達との和解を優先し、それが僕にとっては一番大事なことだと考えた。

 僕と教員達とは今はこんな関係だけど、卒業後に会う機会があった時には、普通に会話できる関係になろうとした。

 例えば、絵(日本画)について解らないことが出てきたなら、大学を卒業した以降でも、質問をもちかけられる~そういう教員と生徒としての関係になることが、最終的な目標や妥協とした。

 

 ここで結論的な話を書いてしまうと。

 僕は最後まで、日本画の教員達とそんな関係にはなれなかった。

 いつもK先生(男子)と怒鳴り合い、何ひとつ関係は進展しなかったことで、年度末には課題の提出期限を守れなくなってばかりとなった。

 普通なら単位取得なんか取得できない状態に陥っていたけれど、僕は大学事務へ『K先生(男子)が教員としての責任を果たして貰えない』と、数えきれないほどの抗議をしてきた。

 その事が考慮されて、僕はギリギリ(?)で卒業の為の単位を取得でき、卒業はできた。

 免許に関しては、取得できないものがひとつ出来てしまう程度で終わった。

 大学院に関しては、入試要項のなかで『在籍していた大学の教員の推薦書』が必要なことがわかり、大学院への進学は諦めることとなった。

 

 最後まで、授業は受けさせて貰えず、課題の出題内容に関しても誤魔化されて終わった。

 和解なんかも、最後の最後まで出来なかった。

 卒業は出来たけれど、就職も進学も希望しながら手を出せずに、僕の学生生活は終わる訳だ。