狩野派と、円山応挙と円山派 No.72
日本画の流派のなかで、円山派というものがあった。
僕は、日本画の流派のことはあまり詳しくなくて、でも画学生の当時に好んだ竹内栖鳳の兼ね合いから、円山派の事くらいは、少しだけ知っている。
本当は画学生時代に、そういうことも知っておきたかったという後悔もある。
今回の話は、狩野派と円山派の話をザックリと書いてみる。
日本画の教育で「何となく」という解釈や抽象的な説明等は、こういう処から来ているのではないか、ということをかきつもりでいる。
でも、上手く文章をまとめられず、自分的にも書ききれてない感じはある。
狩野派と円山派
Wikipediaから円山応挙と狩野派のことを、各々少し引用する。
円山応挙肖像
円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。
近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。
諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。
狩野永徳筆 『唐獅子図』
狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
その狩野派の衰退を迎え、円山派は注目されていく流れはあって。
ある説では、円山派の絵が素晴らしいから円山派が注目されていったのではなく、狩野が堕ちていったことで、円山派が残っただけの事だ、と語る人もいるそうだ。
ここでいう狩野派の衰退の話は、師弟制度や技術の継承の辺りに留めておく(僕の知識も乏しいので)。
狩野派の絵の訓練は、粉本主義と言われているもの。
師の持つお手本を、弟子が描き写して訓練をする。
その描き写した絵が一定の段階までいった時に、師から許可を貰い、次のお手本に移行する。
師のお手本を基に、その弟子が描き写したものは、そのまた次の弟子のお手本となる。
そういう絵の訓練や継承は、次第に進み過ぎ、狩野派からは新しい絵が生まれなくなっていった。
今までにない絵を描こうとしても、パーツずつは昔から模写で描かれたものばかりで、組み合わせや構図の違いばかりとなってしまう。
他の流派との交流を禁じたりもしていて、他の両派が研鑽している新しい発想等も、受け入れない考え方が固まっていく。
そういう時期に、円山派は登場して注目されていく。
円山派の絵は、古い絵を学びつつも、写生から絵を作っていく。
円山応挙は弟子に対しても「もっとよくものを見なさい」と言っていたという。
それは、写生によって絵を作るのではなく、過去の絵を学び、身に付けた技術をもって、実際の景色や自然の面白さを絵に描き取りなさい、と教えようとしていた。
西洋の絵画の基礎においては、科学やマニュアルの概念が入り込んでいて、絵画の教育や技術等の継承はしっかりする流れを持つ。
西洋絵画でも「何となく」とか感覚に委ねて受け取って貰う部分はどうしても残るわけだが、東洋絵画よりは遥かに「何となく」を掘り下げている。
「西洋絵画というのは、合理性の絵画だ」等と言われているのは、そういう処にある。
そういう発想のなかった円山派の教育や技術等の継承は、狩野派と同じく粉本主義に向かってしまう。
粉本主義において、模写は繰返し行われるもので、その模写のなかから、お手本を描いた者の絵のアプローチや緊張感まで伝わってくるもので、「何となく」とか「感覚」というものでも学べることは非常に多い。
日本画の模写のはじまりは、インドから仏教の考え方と同時に書や絵が伝わって来て、それ等を受け継ぐ僧侶の弟子達が書画を書き写す行為にあったという説がある。
そういう処から、日本画の教育や継承には、模写をさせながら「何となく」という曖昧な感覚等で、相手へ伝わっていることを期待する傾向を持つ。
そういう傾向とは違う日本の洋画や西洋絵画を指して、「あれは合理性の絵画だ」という日本画関係者の言葉や文面を、僕は未だに見かけたりする。
古い日本画の教育問題には、反省点があったりするけれど。
今の時代の日本画は、西洋絵画や西洋の文化を取り込んで利用し、むかしと同じ形式ややり方を廃しているのに、都合のいい処ばかり昔の風習や形式のせいにして言い逃れをしているのではないだろうか。
美大の授業との接点
ここで狩野派と円山派の教育や継承の話を書いたのは、これ迄に書き綴ってきた、大学の日本画教員達の指導に重複して考えてしまうからだ。
僕の通う大学で教える日本画の世界感は、洋画とは違う素材(画材)を扱っているとしか感じとれなかった。
日本画で描かれる絵には、独特な濁りや色調等の傾向はあるけれど。
授業のなかで、古書画のことを勉強するわけでもなく、洋画と同じ構図の取り方で絵を描き、洋画で使う顔料(絵具の粉)を日本画の顔料としても多く取り込み、デッサンや水彩絵具での着色写生も行う。
古い日本画のような、粉本主義的な教育を行っている訳でもないのに、具体的な説明を避けて「何となくわかるだろう」とか「何でわからないんだ」といって、それで教育や指導を完結させようとする場面ばかりだった。
僕が大学の入学当初から困っていたことの内容というのは、こういうことの様に思っている。
今回に書いた、狩野派と円山派の話の元は、↓このリンクの本で書かれていたのだと思う。
昔に手にとって読んだときは、こんな表紙ではなかったので、同じタイトルの別の本の可能性もあることも、ここで書いておく。
(後で違ったと確認できた時は、直します。)