絵柄と破墨 No.86
破墨
今回の話の流れとしては、複数の絵柄を持つことについての話を語り、それから破墨(はぼく)という技法を学ぼうとしたことを語る。
実際の処、破墨を学ぶのは中途半端に終わったのだけれど、その破墨をやる過程がK先生(女子)との会話の切っ掛けとなる。
そういう流れで、書き綴っていくつもりでいる。
『破墨』というのは、紙に塗った淡い墨の濃淡の上に濃い墨の濃淡を描き、立体感を持たせた感じの絵を描く技法だ。
日本画では殆んどの場合、麻紙や絵絹等に滲み止めの液を塗って、紙を加工してから描くことになる。
でも破墨の場合には、滲み止めの加工をしないで描いている制作の過程もあった。
その辺りは、使う紙や画家の技術的な兼ね合いもあるのかもしれない。
僕自身も何度か破墨らしきものに挑戦してきた。
模写ならそれらしきものは描けるのだが、自分なりに構想して描くものに対しては、上手く絵にする事は出来ずにいた。
破墨で有名な画家をあげれば、まず雪舟が出てくるのではないだろうか。
僕が破墨に興味を持ったのは、これ迄もよく名前を出してきた竹内栖鳳が絡んだことである。
雪舟 『破墨山水図』
この破墨を、僕は大学2年生の自由課題でやりたいと考えていたのだが、課題についてのS先生の気紛れな返答(課題としては良いのだが、教員の意思としてはダメだということを、更に遠回しに言う)によるトラブルから、学ぼうとすることを諦めていた。
それから3年生になり、僕は教員の誰からも相手にされなくなったことを良い契機と考え、自由課題のなかで許可も貰わずに勝手に挑戦する。
絵柄
絵柄に関しては、古くから複数の絵柄を持つことを『節操がない』等といって、悪く語られる場面が多かったそうだ。
僕の在籍していた美術大学の教員達も、『しっかりした画家は複数の描きかたは持たない』と僕に対して語っていた。
それに反発する考えではないのだが、僕は絵柄を複数持ちたいという考えを、中学生くらいの頃からずっと持っている。
絵柄というよりも、そういう絵柄といった考えなどに左右されず、色々と描きたいと考える。
僕は高校生の頃、油絵具や水彩絵具も使っていて、その材料による性質の違いから、表現できるものも変わってくるという認識を持っていた。
油彩では、キャンバスの上で絵具を混ぜ合わせることが出来るのに対して、透明水彩は紙の上で絵具を練り重ねて色を作る性質を持つ。
日本画は分類的には不透明水彩で、不透明水彩は、塗り重ねた時の下の色の影響を少なくする。
こういう考えというか経験的な話を、課題の何気ない会話のなかで語っていると、ある先生は『日本画の絵具は薄く塗れば、透明水彩にもなる』と言い張っていた。
その上で『高木君の言っていることはどうでもいい』と結論付けられる。
この先生達の描く絵にとってはどうでも良いことかもしれないが、僕の絵の研究にとっては大事なことで、こういう考え方の違いは多く感じ取っていた。
これを僕は、絵に対する趣向や考えが合わないと受け取り、以降はこういった件の話題を避けるのだが、会話の相手となった教員達は『どうでもいいことしか考えていない』と語り、そういうやり取りをする都度、高木は程度の低い生徒だと貶められていく。
そうやって貶める教員や、そのやり取りを見ている同級生達からは、僕は見下されていく訳だが…
僕のこういった考え方を見下される意味が理解できず、結構長い期間、見下されていることも僕の思い過ごしと考えようとしていた。
洋画では画材のことを深く研究しながら絵を描く人が多いのに対して、日本画の人(目の前の人達だけかもしれないが)はそういう画材や素材の研究をしないし、そういう視点を持つことに、批判的な傾向があるのかもしれない。
僕は基礎の処で洋画を学んできたせいなのか、絵画の材料化学には興味を持って実践もしていた。
日本画と一言で言っても絵の幅は広い。
1年生の頃から何度も読み返していた画集のシリーズで、『巨匠の日本画』というものがあった。
その画集のなかで毎回、当時は東京芸大の学長をしている平山郁夫が解説をしていて、『表現の幅の広さは、表現を深めることにも繋がる』という意味合いのことを書いていた。
そういう処からも、僕がやっていることは、日本画から外れたことをしていないと考えていた。
そうして色々とやってはみるのだけど、結局は自分の力不足のを知るばかりとなった。
そうやって、自分の絵の幅を広げようと足掻いていたことひとつが、この破墨ということである。
先に『中学生くらいの頃』と述べ、その頃から絵柄を複数もって、表現の幅を広げたいと考えていた、と書いた。
その頃に何があったかといえば、天野喜孝というイラストレーターの影響があった。
名前で言っても判らないかも知れないが、僕の同世代の多くの人は、絵を見れば「あ~この絵の人!」と思うだろう。
例えば、グイン・サーガという小説の挿絵を、途中から描き始めた人物。
グイン・サーガという小説は、僕が小学生の頃に話題になっていた。
それから物語はずっと続き、ここ何年か前に作者は亡くなったが、まだ物語は終わっていなかった。
今では、作者とは別の人が続きを書いて、完結させようとしている話を耳にする。
グイン・サーガの絵と、ファミリーコンピュータで出ていたゲームのファイナルファンタジーの絵は、同じ人だというのはみんな直ぐにわかったと思う。
そこから、テレビアニメのタイムボカンシリーズやみなしごハッチまで、天野喜孝が描いていたことを、ある雑誌で語られていた。
そのことに、当時は僕だけではなく多くの人が驚いていた。
この話の元になっている雑誌名は忘れたが(ドラゴンマガジンだったかな?)。
天野喜孝は商業美術の業界に入るとき、「どの絵があなたの絵柄なのですか?」という質問と「絵柄をひとつに絞ったほうがいい」という言葉を色々な会社でかけられ、全てが自分の大切な絵柄であって、その受け答えに困っていたと語っていた。
僕がこれまでに接してきた人達のなかには、芸術とアニメや漫画は別物であると語り、それ等を同時に好む行為を嫌がる人は多かった。
でも僕という存在は、日本画を学びながら、漫画やアニメも好きで、その影響を受けながら育ってきた者であり、そういう部分を否定されているのかもしれない。
それから今の時代になって、画商さんの扱う絵には、アニメや漫画の要素を取り入れたものが多くなっている。
時代の移ろいのなかで、今の時代の常識は次の時代や人の常識ではなくて、そういうことを受け入れられず、考えられない人も多い。
でも、僕がこの美術大学へ入学してくる迄に教わってきた話では、美大や芸大での授業というのは、そういうものも含めての自由なのだと聞いてきた。
これは日本画の世界だから許されないことなのか、この教員達に力がないから、こういう縛りや面倒事を作っているのか、どちらだろう…
日本画画家の絵柄
僕が好んだ画家の竹内栖鳳も、自分の絵柄を固定はせず、色んなものを描こうとしてきた。
そのことで、若い頃には何かと責められたという話もある。
竹内棲鳳は、画家として作品発表したばかりのころ、日向ぼっこをしている猫の絵を発表した。
その絵は震災で失われ、今では写真等の記録さえも残っていないので、画像やリンクを貼ることも出来ない。
日向ぼっこをしている猫は、色んな流派の技法を用いて描き、そのことで様々な処で責められた。
そういう時代でもあった。
日本画の公募展で、複数の流派が入り交じることは稀で。
その場合でも、審査員等はその流派ごとに用意しなければならない。
だから、竹内栖鳳が複数の流派の技を一枚の絵に描き込んだことで「お前はどこの流派なんだ」という責めをうけた。
それに対して「私は鵺(ぬえ)派だ」等と返したりで、何かとトラブルになっていた。
そんなことにもめげず、竹内棲鳳は色んな流派の絵を模写して学ぶ。
その行為に対して、師匠から「また摸写ばかかりしている!」「お前は円山派の域を出てしまっている!」と叱られ、何度も破門を言い渡されていた。
それなのに、少し時間が経過すると、その破門は取り消されてうまく師弟の関係を修復していた。
竹内栖鳳の人間関係の修復に関しては、僕には真似できない事だけど。
絵への考え方に関しては、共感できそうな部分は多い。
竹内栖鳳は、意欲的に色んな絵を描いてきた。
一枚ずつで絵をみて、描いた題材や流派的な技巧、そういったものから考えれば、その色々な絵は、違った絵柄と考えたのかもしれない。
でも今の時代に、竹内栖鳳の作品をまとめて見てみると、どれも竹内栖鳳らしい感じを見てとれる。
僕なりの考えだけれども。
大学などで学んでいる過程でなら、絵柄なんか意識せず、色々と描きたければ描けばよいのだと思う。
数を描いていれば、そのなかからその人らしい感じというのは、自然に出てくるものであり、絵柄的な意識なんかしなくてもよいのではないか。
そういうのは誰かが指示するものではなくて、それぞれが勝手に考えて、自分なりの絵はこうだと結論付けていくものではないだろうか。
2年生の頃に何度かスケッチブックに模写していたもので、『おぼろ月』という絵がある。
竹内栖鳳『おぼろ月』
この『おぼろ月』も竹内栖鳳の絵で、使っている紙は少し特殊なものだった。
少し特殊な紙というのは、竹内栖鳳の要望によって作られた紙で『栖鳳紙』という名前の紙である。
この栖鳳紙の登場以前では、竹内栖鳳は中国の書画用の『画仙紙』という紙を取り寄せていたという。
そして、その『画仙紙』を使い、古書画の世界では有名な禅僧の『雪舟』が得意とする『破墨』といわれる描き方を研究していた。
そういう過程を経て描かれたのが、この『おぼろ月』だった。
上手くはやれないだろうが、自分の勉強のためにはやりたい。
そう考えて、僕も画仙紙を購入して作業を進めていった。
そうは思いながら、過去に掛けられてきた教員たちの言葉から迷ったりもした。
2年生の裸婦の課題の時。
S先生は僕に対してこう言っていた。
「上手くいかなかった作品を提出してもらっては困る。上手くいく描き方で描き、上手くいったものを提出しなさい」
その言葉に従うのであれば、僕は『破墨』といった、上手くいくかいかないかわからないことを行うべきではない。
僕は1年生の頃から、上手くいかなったものや、制作の過程が他者と違っていると、教員達からは「抽象画をやっている!」と決めつけられて批判されてきた。
僕のなかで『破墨』をやることへの否定的な要因はこの件となる。
しかし、今更S先生に掛けられてきた言葉の数々を大切にしようとは思わない。
いま僕が学ぼうとしている技法は、何となく本で読んだり聞いたりしただけの知識で、殆どの者がすぐにやれてしまうものではない。
数え切れないほど失敗を繰り返し、苦労して身に付けてこその技や腕を求めていた。
これまでに延々と誤解を受けて、批判や低評価ばかりを受けてきた僕であるのだから。
これから始める課題制作で、誤解や批判や低評価を受けたのだとしても、これ迄と同じことだ。
それならば、少しでも自分の経験やプラスになることをして、教員達からも嫌われようと考えた。