絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

裸婦の日本画制作2 No.69

見間違う絵

 裸婦の日本画制作の課題で、その講評会。

 この時も納得ないかないまま、完成の目処もついていない課題を持って、僕は講評会へ出席する。

 この時の講評会に出席した先生は、S先生とI先生である。

 

 講評会へ出席すると、同級生の描いた作品のなかのひとつで、僕の作品とそっくりなものを見付ける。

 遠目に、自分のものと見間違えてしまった程だった。

 僕の絵もその生徒の絵も、裸婦の背景部分は、モデルの肌に割りと近い色を選び、人物を靄のなかから浮かび上がるように塗っていこうとしている。

 裸婦の肌の色では、微妙な色合いの変化を作ろうとしているが、背景に色を食われてボケた感じになっている。

 僕と同じようなイメージで描き始め、曖昧な色の混じわりに翻弄され、悪い流れのままで講評会を迎えたのであろう処まで、よく解る。

 そういう生徒も居たことは、後々に色々と考えてしまう材料にもなる。

 

生徒全体への批評

 先の生徒何人かの作品を批評しているのを聞いていると、生徒の作品の全体的な出来は悪いと、S先生とI先生は語り叱り続けている。

「もっと幾らでも、やりようは有るだろ」
「もっと色んな事をやっていいんだよ」
「何でみんな、こんな風にしか描けないんだろう」
「今の若い人たちは、創造力とか独創性とか、そういったものが不足している。」

こういった言葉を、課題の出来の悪い生徒の批評で何度も繰り返す。

 そのなかで唯一、Taの作品だけは
「傑作だ」
「一番上手くモデルさんを捉えている」
等と言って褒めている。

 

 Taに関しては、大学入学前から日本画画家に絵を教わり、日本画の画材の勝手を知っている人物だった。

 だから、いつも講評会で見るTaの絵には、絵具や絵作りの馴れた感じがある。

 そういう背景からも、同級生内では一番絵が上手く、評価もされている、という認識を殆どの生徒が持っていたと思う。

 僕よりも腕が上か下かの考えは別として、僕もそういう認識はしていた。

 でも今回ばかりは、Taの絵は手抜きや誤魔化しのような要素が見えているのに、なぜこうも褒められているのかが理解できない。

 その絵は、モデルさんの背中と後頭部しか描かれておらず、手や足や顔などのパーツは殆ど隠れて描いていない。

 デッサンの時から、Taは上手くデッサンが描けておらずに「デッサンなんか描けなくても、良い絵は描ける」と豪語しているし、この講評会以降も、その傾向を続ける。

 人体を上手く描けないのを誤魔化す為に、背中と後頭部しか見えない場所を選び、描きあげたように僕には見てしまう。

 本人にその考えはなかったとしても、意欲的に絵を描こうとしている者が、わざわざこの様な角度からモデルさんを描こうとするだろうか。

 この課題の制作の過程では、S先生とI先生は生徒達に、モデルの肌の色合いを追求して描くよう、生徒達に強く指導していたのに、Taの絵にはそれをやった感じはなくて、自分なりの手慣れたやり方で描いている。

 そうやって、上手く誤魔化して失敗を回避した絵を「傑作だ」等と褒める。

 描写力やデッサン力等がなくて描けなかったり、試みの失敗したものに「なんでみんな、こんな風にしか描けないんだ」等と叱る。

 

 一年生の頃から思っていたことだが、教員達は授業のながれや都合を優先する為に、生徒が学ぶという根本的な部分は疎かにされている様に思う。

 このことで、当然の様に上手く描けない生徒には厳し目の言葉をかけ、教員は厳しい指導をしたつもりになっている。

 そして、元々それなりに描ける生徒は大事にして、自分等の大学の指導のなかで育てた生徒として扱う。

 

 絵を上手に描く為の基礎~ここでの僕なりの理屈でいえば、デッサンや着色写生などになるのだが。

 大学のランク的な問題から、そういうものがしっかり出来ていない生徒をこの大学では多く入学させる。

 だからといっても、授業ではそういう基礎的なものをきちんと教えない。

 デッサンの授業でも、基礎を身につける為の話しなんか殆どしないで、モデルさんを用意してポーズや休憩の時間を計らせ、そういうかたちや形式的なものだけで殆どが終わる。

 基礎を身に付けていない生徒に対して、教員が「基礎が出来ていない」などということを厳しく言葉をかけたからといって、その生徒に基礎が身に付くわけではない。

 僕がデッサンや着色写生を頑張ってきた経験からいっても、長い期間の訓練を通して基礎的な技術は少しずつ積み重さなり、身に付いていくものである。

 そうなる様に、教える側は生徒の過程を見て、工夫したり様々な促しを行う。

 これまでに絵を教えてくれた人達は、みんなそういう風に指導をしてくれた。

 教員が生徒に対して、その時々の気紛れで矛盾したことを語り、細かな部分は生徒どうしで教え合う方針でやってきて、生徒がS先生やI先生が望むような成長をしていないのは、僕の視点では当然のことなのだ。

 この一連のことを簡単にまとめれば、S先生とI先生の教員としての指導力が不足している為、生徒達は教員が思うような成長をしていない。

 それを棚にあげて、S先生とI先生は生徒に叱り続けている。

 

 S先生とI先生は、何度も生徒達に対して

「今の若い人たちは、創造力とか独創性とか、そういったものが不足している。」

 と語った。

 この言葉を、僕は他でも見掛けている。

 新美術新聞という新聞のなかで、当時の女子美の洋画の教授をしていた方の寄稿した記事のなかで、その教授が、自分の教え子世代を批判したものだ。

 それをS先生とI先生は同じように語り、僕は学外の他の場面でも、同じような言葉を見かけている。

 だから、ある意味では、この世代の教員達の流行語なのかもしれない。

 『今の若い人たちは、手先とか描写力とかはとても優れているけれど、創造力とか独創性とか、そういったものが不足している。』

 このなかで『手先とか描写力とかは優れているけれど』という言葉をS先生やI先生が省いたのは、この大学が三流の美大で、デッサン力や描写力のない生徒を入学させているからだ。

 その生徒の劣る部分を教員達は知っていながら、教えることもしない…というよりも、この大学の一般的な生徒よりは、教員達は描けるだろうが、その程度なのである。

 僕の世代が有名大学を目指すくらいのレベルで、基礎を頑張った経験や基礎力を持っていないから、それを教えることも出来ず、厳しく叱るばかりで終わっている。

 厳しい批判をすることで、指導しているつもりなのだろうが、デッサン的な基礎力というのは、口先で幾ら批判しても伸びるものではない。

 僕もそうだが、S先生やI先生に批判されている生徒達も、広い意味で~絵が上手くなりたい意欲は強くあって、その為に授業の時間で努力はしてはいるのだ。

 そういうものを、この美術大学の教員がわかっていないのだ。

 

 美大や芸大の難関校は、特にバブルの頃をピークに競争倍率が跳ね上がっている。

 浪人時代に聞いた話では、東京芸大の入試で80倍くらいまでいったという。

 競争倍率が上がり、力を持っている者達で争うということは、入試で求められる技術も上がってくることになる。

 競争率や難易度が上がるほど、描写的な力を身に付けていくことになり、受験を終えた以降も、描写から離れた自由な絵を描けなくなる傾向がある。

 描写や写実を詰めて学んでいくと、物理的なものばかりが絵に詰め込まれてくる。

 そうなると、気持ちとかイメージとか、そういう「色んなこと」と言われるようなものは、絵に入る余地も無くなっていくのだ。

 そして、『今の若い人たちは…』等と語っている人達の世代は、そこ迄の競争倍率や技術を求められず、経験もせずに、美大や芸大へ入学してきた。

 そういう世代が、自分達では通過できない程の難しい受験体制を作り、通過した生徒を指して『今の若い人たちは…』と語ってしまう。

 色々と本を読み漁ってきた僕としては、そう語る前に、生徒へ「創造力とか独創性」等と言っているものを生徒に考えさせたり、学ばせ伸ばす努力をするのが美大や芸大の教員のやることではないか、と考える。

 これは洋画の話に限るものではなく、僕がこの当時に好いていた日本画画家の竹内栖鳳も、自分の弟子や生徒に「想像力とか独創性」等といったものを考えたり模索させようと、日頃から考えていた。

 それだけに、教員達の語る『今の若い人たちは…』の言葉を、僕は素直に聞き入れることは出来ずにいた。

 

 日本画を知る人であれば、作家に疎くても横山大観のことは知っているだろう。

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生誕150年 横山大観展 ―時代を超えて輝く日本画の巨匠― あでやか《紅葉》《夜桜》二大競演は 7月1日まで - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン

 横山大観は、東京美術学校(今で言う東京芸大)の1期生であり、卒業してすぐに、東京美術学校の教員となった。

 その横山大観は、絵など学んでいない状態で東京美術学校へ入学してきた。

 実は、東京美術学校を受験する前、語学学校の受験をして一度は合格している。

 しかし、併願してはいけない学校を併願していた為、合格を取り消しになる。

 その年に東京美術学校は開校され、翌年を目標に頑張るつもりで、どんなものかを知ろうと受験したら合格してしまった、と横山大観本人が生前に語っていた。

 生まれ持った才能とか感性という言いまわしも有るだろうが、東京美術学校は素人を入学させはしても、その素人を卒業時には横山大観に育て上げている。

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横山大観屈原

横山大観 - Wikipedia

 当時から僕の好んでいた竹内栖鳳は、弟子を育てる為に、色々と考えて実践していた逸話もある。

 弟子に庭掃除をさせ、落葉を全て拾い捨てたのを見て「これでは風情も何もないのだよ」と語り、木の枝を揺すってわざと落葉を少し落としたり。

 自身の絵を弟子に模写させる一方で、弟子が師の絵に捕らわれないで絵を描くことを喜んでいたり。

 そうして、竹内栖鳳の弟子は、多くの力のある画家を育て、世の中に送り出してきた。

 

 これ等の話が頭のなかにある前提で、S先生とI先生の講評会を受けていると、力のない教員の悪乗りした指導現場にしか見えずにいた。