3年次の裸婦デッサンと着色写生1 No.79
進歩のない経過
3年生になってからの課題は、裸婦のデッサンから始まった。
デッサンを描くに関して、今回も教員たちからは何ら説明などはなかった。
ただ課題として、裸婦のデッサンと着色写生の課題が始まっただけだ。
2年生の頃は、裸婦のデッサンや日本画制作の件で何度も揉めてきたのだから、今回もデッサン等で揉める覚悟はしていた。
しかし、この時のデッサンや着色写生では、教員たちから何の言葉もかけられない。
それは僕だけの話ではなくて、他の生徒達も同じく、殆ど声をかけられていなかった様に思う。
周りの生徒に関しては、相変わらず僕の絵を見て何かと噂する。
一部には、僕のデッサンが上手だと言って後ろから覗き、「こういうの(人物のデッサンや着色写生)を描かせたら、先生達より上手なんじゃない?」などと話している女子生徒はいる。
近くで僕を煽てる様な発言なんかをして、僕と会話をする切っ掛けを作ろうとしていたのかもしれない。
それでも僕としては、S先生から2年生の頃に「日本画の人間とは、誰とも口を聞くな」「もう誰も、お前には関わらせない」等と怒鳴り付けていて、その前提がある。
僕はそんな理屈に従っているつもりはないのだが、S先生とA先生(女子)とI先生は、僕を敵対視し、同級生達には「高木には関わらない方がいい」と語りながら、僕と敵対していると見ているToを、みんなと仲良くさせようと促す。
こういう状況からも、僕への悪口を語るのが得策と見て、僕の悪口や陰口や講義の授業の妨害などを行い、それを面白がる生徒は一定数居る。
その状況の度に疑いを持って見ている一部の生徒達が、僕に近づいてこようとするのだが、僕は『絵に集中したいだけなんだ』という意思を固めている。
だから僕は、新しい面倒ごとを作らず、僕の様な理不尽な思いをする人を作らないようにと考えるばかりで、誰のことも相手にしない。
同時に、S(男子生徒)やTa等が「(日本画の)先生達が、高木には近づくなって言っているんだから、近づいちゃダメだよ」「これ以上近づいたら、ぶっとばされるよ」等と言って、僕に近づこうとする同級生達に注意する。
こういう状況と平行して、これ迄に僕が、S先生やI先生から散々怒鳴られてながら禁止された描きかたをやっているのを指して「またあんなことやってる」とか「(先生達の怒鳴り付け等が)また始まるぞぉ」等と嘲笑っている生徒が多かった。
勿論、色んな意味合いで面倒ごとに巻き込まれないようにと、僕の近くに居ることを避け、黙っているだけの生徒も一定数いる。
そんな感じで多くの生徒は、僕を中心にしたトラブルが起こりそうな予感や期待を持って様子を見ている。
しかし、何故か教員達は、アトリエ(教室)へやってきても黙って生徒の絵を見てまわるだけで去っていく。
主観的に見てしまう自身の絵
アメーバブログからはてなブログへ、この話を移行させている過程で、幾つかの話を省いている。
どこかで書き直そう省きながら、ここまで書く機会を失ってしまっていた内容を、ここでひとつ書いておく。
絵を描いていると、自分の絵は客観的に見れなくなる傾向にある。
だから僕の絵も、自分で思っている程のものではないのだろう。
しかし、同級生達のデッサンや着色写生では、上手と見れるものがない。
浪人時代に通っていた予備校には、洋画や彫刻やデザインを志す生徒が居て、全体で50人くらいだっただろうか。
僕の通っていた予備校の生徒達は皆、この同級生達よりも腕はずっと上だった。
当然のことながら、予備校の生徒達は、それ相応の訓練をしているからだ。
それから、この美術大学の入試では、僕の代からデッサンの試験は廃止された。
その為、この美術大学へ入学してきた僕の代の生徒達は、入試課題であるデッサンの対策をしていない。
それ処か、デッサン自体に頑張ったり苦労した経験も少なく、知識や経験が乏しい。
中高生のゆるい美術部レベルのデッサンしか描けないまま入試を通過し、I先生やS先生の指導によって、基礎としてのデッサンではなく、漫画やぬり絵の様なおかしなデッサンを描いている。
そして、それが日本画のデッサンとして正しいと思い込み、教員や多くの生徒達が一緒になって、感じの違う僕のデッサンばかりを批判することで、自分等は上手になったつもりでいる。
僕が認識している限り、I先生やS先生も、デッサンの基礎で頑張ったり苦労した経験はなさそうで、デッサンというものをそれほど理解していない。
2年次で、実際にS先生と言い合いになった話で、デッサンと白黒写真の話がある。
S先生から僕へ賛同を求めてきたデッサンの話に、白黒写真と見間違える程のデッサンこそ、力のある者のよいデッサンだ(お前もそう思っているだろ?)、と語られていたものがある。
この発言は、僕を言い負かす為の屁理屈のひとつだったのか、S先生自身で本気でそう考えているのか、どちらだったのか僕には判らない。
絵を学び始めて、まだデッサンのことなどを知らない人達であれば、『白黒写真のようなデッサンを描きたい』というイメージでデッサンする者も多い。
それでも絵画の基礎を学んでいく過程で、デッサンとはそういうものではないと、学びながら大体気付くものではないだろうか。
デッサンでは、白い紙に黒い鉛筆や木炭でモチーフを描いていく。
その描く過程では、モチーフの位置関係を測ったり、モチーフの取り巻く空間も描くかを選択したり、色調を黒の濃淡に置き換える等、無言のままに多くの情報が入り込んでくる。
洋画や彫刻のデッサンなどで、黒いデッサンを好まれるのは、それだけ多くの情報を感じ取り、紙面上に描きとろうとする考えがあるからだ。
今の時代はデジタルカメラも普及しているが、この美術大学で僕がやり取りしていた時期は、まだフィルム写真が主流だった。
写真は撮影する時に、フラッシュをよく使う。
フラッシュを使いながら撮影することで、対象は見やすくなる訳だが、デッサン的に捉える情報はフラッシュのなかに薄まっていく。
同時に、『白黒写真のようなデッサン』というのは、目に見えたままのイメージのデッサンという考えもあるのだろうが、フラッシュを使った写真は、目に見えたままの映像ではない。
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フラッシュを使わないで撮影した室内写真や、カラー写真を補正せずに白黒コピーした際、黒い・暗い映像を作ってしまったことはないだろうか。
その黒い・暗い映像は、人の主観や見えやすさを考慮せず、機械的に作り上げた実際の映像でもあり、ひとつの映像的な真実でもある。
I先生やS先生が僕へ言いたかったものを、僕は何度もよい方向に考え・解釈しようとはしてきた。
でも、話を聞けば聞くほど、よい方向に考え・解釈する為の余地はなくなっていった。
鉛筆画や絵として、白黒写真の様なデッサンを描く行為も、ひとつのデッサンとして受け入れろ(否定するな)という意味合いのものだったなら、僕もそこに反論はしない。
でも現実には、鉛筆画(白黒写真の様なデッサン)とデッサンは、絵画の基礎としての意味合いからも別物であると僕は語る。
その僕に対して、S先生は「そういう考え方をしているから、ロクな絵が描けないんだ!」「デッサンも絵だから、高木の様な考え方は間違っている!」と強く叱ってくる。
そういうやり取りを見ている同級生達は、大学の助教授の立場にあるS先生の主張を正しいと考える。
それから、普段から生徒思いで優しいS先生やI先生やA先生(女子)が、僕に対してだけ感情的になって怒り怒鳴る姿を見て、同級生達は僕を見下して嘲笑う。
日本の教育や社会は、まわりを見てそれに習う習慣がある。
でも、芸術を学び追求する場では、まわりを見て習う習慣から離れ、自分なりに考えることを求められるのだが、この大学の教員達の意向は違っているのだ。
この話自体は、大学2年次のやり取りではあるが、その影響は、この時期である大学3年次にも強く残していた。