絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

3年次の裸婦デッサンと着色写生2 No.80

これ迄と違った流れ

 デッサンでの話は、根本的な部分で同じことを繰り返している。

 僕としては。

 黒いデッサンに拘るつもりはないが、鉛筆でも木炭でも、濃い濃淡での描きたかを苦手としていて、そこを克服しようとしていた。

 それをI先生とS先生は、『彫刻のデッサンみたいだ』『日本画には日本画に適したデッサンがある』と語り、遠回しにやってはいけないことと語っていた。

 それ等の指示については、後になってから『あの時は機嫌が悪くて…』という話を語り、今はそういうデッサンを禁止してはいないという話になっている。

 それならばと、僕は再び濃度の濃い3B~6B位の鉛筆を使い始める。

 それを見た多くの同級生達は「バカだ、またやっている」と語り、僕が再び教員達に怒られる場面を期待して待っていた。

 しかし、この時のデッサンで、教員達はアトリエ(教室)へやってきても、生徒のデッサンに口を出さない。

 この時に違和感を覚えていたのは、僕だけではなかったと思う。

 

 それからある日。
 職場復帰をしたK先生(女子)が教室内の僕等生徒たちのデッサンに対して、口を開く。

K先生(女子)
「皆さんはどうしてこういう描き方をしているのですか?」

 K先生(女子)のこの質問は、たぶん、この教室の殆どの生徒たちはわからなかっただろう。
 僕自身もすぐにはわからなくて、後になってから意味合いを理解した。

 この場では殆どの生徒が、I先生とS先生とで指導してきた『日本画に適したデッサン』といものをやっていて、K先生(女子)はそうとも知らず、生徒が自分等なりの意思でやっているデッサンだと思っている。

 K先生(女子)の視点からは、そのデッサンを良いものとは見ていないのだか、そのデッサンを殆どの生徒が示し合わせたように行っている。

 だから「皆さんはどうしてこういう描き方をしているのですか?」という疑問や質問だった。

K先生(女子)

「どうして皆さんは何も答えないんですか?」

突然そう言われても、僕には思うことが多くありすぎて、何かを喋ろうにも考えがまとまらない。

 同級生達に関しては、S先生やI先生の教える『日本画に適したデッサン』を忠実にやっているので、ここでK先生(女子)が何をいっているのかさえ、わからなかっただろうと思う。

K先生(女子)
「もっと色んな描き方をしたらどうですか?
むかし、安田靫彦さんは弟子の小倉遊亀さんに普段描かない描き方を色々やるように言ったんです。
そうすれば、いつかは一枚の葉っぱが手にはいるでしょう。
一枚の葉っぱが手に入れば、宇宙だって手に入りますよ。
そういう風に、みなさんも色んな描き方をしてはどうですか?」

 K先生(女子)は後半で咳き込みながら話し、教室を去っていった。

 その後、まだ教室内では裸婦のモデルさんがポーズをしているのに、生徒たちはK先生(女子)の言葉について話し合う。
「言っていることはわかるんだけど、具体的に何をやったら良いのかわからない。」
「葉っぱとか宇宙とか、そういうイメージで絵を描けってことなんだよね?」
小倉遊亀って人はまだ生きてる?もう死んでる?安田靫彦って人はまだ生きてる?もう死んでる?」

 同級生達のこういう会話を聞いていて、この『一枚の葉っぱ』についての話や、K先生(女子)の発言の意図を理解している生徒は誰もいなかった様に思える。

 でも、この一枚の葉っぱの話を、僕だけは知っていた。

 

一枚の葉っぱ

 『一枚の葉っぱ』について。
 それは小倉遊亀の修行時代の話。

(↓の絵は、修業時代のものではありません)

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小倉遊亀 『径(こみち)』

径(こみち)/小倉遊亀 - 遊びをせんとや生まれけむ

 小倉遊亀が絵を描いていたある時期、何を描いても自分の気に入らない感じになってしまう。
 その事を師の安田靫彦に話した時、こういう話をして貰った。
「今の小倉さんには、絵のなかにひとつの型が出来つつある。
その型が自分で気に入らないと思うのであれば、その型を壊す為に、普段は使わない紙や絹、あまり描いてこなかったモチーフ等を敢えて扱ってみましょう。
それは何年掛かっても良いのです。
そうすることで、いつかは小倉さんにも『一枚の葉っぱ』が手に入るでしょう。
『一枚の葉っぱ』が手に入れば、宇宙だって手に入りますよ。」

 納得のいく型の切っ掛けを『一枚の葉っぱ』に例えている。
 葉っぱ程度の小さなものであっても納得のいく型を身に付ければ、納得のいく絵の契機になるだろう。

 

 この『一枚の葉っぱ』の話を知ったのは、「芸術倶楽部」という美術雑誌のなかの記事だったと思う。

 この記事を書いていたのは、僕等が在籍している大学の講義授業の先生で、若林先生という女性の方。

 若林先生の本業は、古川美術館という企業の持っている美術館の学芸員であり、僕はこの先生を頼りになるお姉さんの様に慕ってもいて、絵に関しての話を色々と教わっていた。

 それから、その若林先生が本業の美術館で企画した『師と弟子展』は好評で、雑誌社から依頼されて、その雑誌向けに書いた記事でもあった。

 そういう経緯もあって、K先生がこの話を持ち出した時点で、僕はこの『一枚の葉っぱ』の話は既に知っていた。
 しかし、K先生のこの時の言葉だけでは、他の生徒達はこの『一枚の葉っぱ』の内容は掴めないのではないかとも思っていた。
 実際に、K先生が去っていった後の生徒たちの会話を聞く限り、理解していないのに理解したつもりになった発言ばかりしている。

 一年次に僕がしていた様な、ここから研究室(日本画の職員室)へ行って質問しようとする者もいない。

 2年前の僕ならば、ここでK先生の話をもっと良く知りたいと質問を持ちかけていた。
 そういう行動を実際に行ってきた僕にとって、わからない話をわかっている振りをして周り(わからない者同士)に同意を求めて納得しようとする行動を、よくは見ない。

 同時に、わかったつもりになって、自分なりの解釈をまわりへ教えていく生徒なんかもいて、大学で絵を学ぶ環境というのは呆れてしまうことばかりだと感じていた。

 K先生(女子)の語った『一枚の葉っぱ』の話は言葉足らずで、話の意味合いを正しく理解している生徒など見当たらない。

 そこには、何か意図があって言葉足らずで終わっているのだろうか?

  

 この『一枚の葉っぱ』の話を、僕はまわりの生徒達に説明しようか、少しだけ迷う。

 絵を学ぼうという気持ちは、彼等(周りの生徒たち)も僕も同じ筈だ。

 同じく絵を大切に思う立場から、蟠りがあっても気に食わなかったとしても、僕は彼等に『一枚の葉っぱ』の事を話した方がよい、とは考える。

 しかし、彼等に話しかけるべきではない、という考えの方がずっと強く心の中を占める。

 まず頭に浮かんでくるのは、僕はS先生から「誰とも口を聞くな!」と怒鳴り命令されている存在であること。

 その上、一年生の頃からずっと、僕の考えていることは間違いだらけで程度が低い、等と教員や同級生達から馬鹿にされ続けている経緯もある。

 そういう存在である僕が、同級生達に何かを教えることに違和感があり、その行為は新しいトラブルの種になるとしか僕には考えられない。

 やはり黙って、僕は自分のことだけに専念するべきなのだと考え直す。