絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

デッサンの話1 No.26

 画学生の頃、僕はよくデッサンを描いていた。

 日本画の同級生達からは、その行為に対して「いつまでもお勉強用の絵をやっている」「受験絵画に縛られている」等と馬鹿にされていた。

 同級生のなかで、主導権の様なものを握っている何人かの生徒がそういう発言をすると、他の生徒達もそんな風に考えて同調していく。

 日本画の生徒のなかでの僕は、同調とか考えを合わせるというのをしてこなかった。

 というよりも、他人に同調したり考えを合わせて絵を描く行為というのは、絵をつまらなくさせるものだと考えている。

 大学へ入学するまでに洋画の先生達について基礎を学んできた立場からは、こういう考え方が普通に思えてしまうのだけど、これを読んでいる人はどう思っているのだろうか。

 そんなだから、僕はデッサンを止めなかったし、授業とは関係なくやっている事にまで批判してくる同級生達には、面倒臭く思っていた。

 大学でも、珠にデッサンの授業はあった。

 そこでの同級生達は「日本画らしいデッサン」等という言葉をかたり、輪郭線ばかりを追って、輪郭線の内側は鉛筆を寝かせて塗り込むぬり絵の様なデッサンばかりやるようになっていく。

  そして、僕だけはそんな流れに流されず、洋画的なデッサンを続けていく。

 僕がこれから描いていく絵のイメージでは、写実的なものを目指すわけではないけれど、写実的に描こうと思えば幾らでも描ける腕を持っている前提があった。

 もっと力をつけなくては…そんな気持ちも強く持っていた。

 そのデッサンへの考え方の違いが、後々のトラブルにもなっていくのだけど、それはまだ暫く先の話になる。

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 ↑これは大学を卒業して以降、木炭で描いた、自画像のデッサン。

 絵から離れる場面も多々あり、腕は鈍っても行くので、少しデッサン狂ってる。

 画力に関していうと、大学一年生時で『力がない』とバカにされていたこの時期が、一番充実していた。

 そこから腕を鈍らせていくばかりになっていく。

 画像のデッサンだけど。

 これくらい描けても、三流の美術大学では『基礎的な力がなく、話にならない』と、教員や同級生達から毎日バカにされていた。

 

基礎の習い始め

 デッサンについては、高校の美術部で少しはやっていたけれど、10回前後とかそんな程度だと思う。

 高校時代の僕は、絵を描きたいと思いながら柔道をやっている矛盾した存在で、その辺りに関しては、過去の投稿で書き綴っている。

 10回前後というのも、美術関係の大学受験の為にデッサンしている上級生を見掛けて、面白そうだと混じってやったものが殆どで、特に誰かから何かを教わりながらやった訳ではない。

 しっかりと教わりながらデッサンを始めたのは、浪人生になってからだ。

 

 僕の実家は北海道の旭川市にある。

 高校卒業後は、札幌の北海道造形美術学院という美大・芸大受験用の予備校・研究所へ通った。

 その予備校を選ぶ前に、幾つかの学校も見学して、考えて選ぶ予定ではいた。

 しかし、最初に見学しに行ったこの予備校の堀田先生という方に、僕は強くひかれるものがあって、すぐにこの予備校を選んだ。

 その予備校の高橋先生は、日本画を専攻する僕へ「日本画のデッサンも、元々は西洋絵画のデッサンを取り入れたものであり、大学で求められるデッサンというものも根本的なものは一緒だよ」と語っていた。

 だからという訳ではないが、僕は「日本画らしいデッサン」に拘るよりも「自分の描きたい絵」というものを模索し近付く意味合いや目的を持って、デッサンに打ち込んできた。

 見よう見まねでデッサンはしていた程度の僕だったから、教える側も苦労はしていたと思う。

 

 ここからはデッサンの話ではなく、着色写生や油絵の制作での話になるけれど。

 新学期の始まりで、その予備校の授業の最初の辺りの高校生も交えた講評会で、木路先生が全体に向けて、こんな指摘を行った。

 「黙っていると、描き慣れていない人ほどまわりの人の絵を見て、同じ様なやり方をして、同じ様な絵を描こうとしてしまう。

 それだと、絵の上手な人が間違ったことをしていたら、みんな一緒になって間違てしまう。

 それではダメなんだよ。」

 その場面で、僕は内容面でもそんな指摘を受ける対象ではなかったし、この頃は絵を習い始めた高校生が多く、浪人生関係は受験直後でお休みしていた。

 そんな生徒達だったから、こんな注意の話が講評で出てきたのかもしれない。

 僕は大学へ入学するまで、こんなことを意識したことは無かったが、思えば高校の美術部や予備校で絵を学んでいる過程では、そんなことを交えた教えを受けていた。

 だから、大学に入って日本画の授業を受けていると、あの時の木路先生と同じ言葉を同級生達にかけたくなってしまう。

 

 みんなは、何で自分で考えないのか。

 K先生(女子)は「日本画の経験者に教わらないでください」「日本画の描き方は、本等を見れば載っていますけど、皆さんは本とかではなく、私達の生きた教えから学んでください」「わからないことがあったら、研究室へ質問に来てください」などと語り、それを実行する者は殆どいない。

 質問を持ちかける僕に対しても、教員達側は「同級生達に聞け」と返答し、きちんとした対応もしない。

 日本画の同級生達は、誰か(同級生)の考えや描き方を見聞きして、日本画はこういうものだと認識してしまう。

 これが日本画と洋画との違いなのだろうか。

 日本画の教員や同級生達の言動も、僕には納得できず、違和感や疑問ばかり募らせてしまうのは、この辺りからなのだ。