動物画制作1 No.48
花鳥画を学びたかった気持ち
裸婦のデッサンの課題の後、動物画の日本画制作の課題が始まる。
この課題に限った話ではないのだけれど、大学の課題制作の段取りとして、最初に小下図相談というのを毎回行わなければならない。
この動物画の課題では、その小下図相談から、S先生とのやり取りがうまくいかない。
課題に手をかける前から考えていたものは、風景や空間と一緒に動物が描かれている花鳥画の様なものだった。
「花鳥魚蝦畫冊」 画帖21図の1点 絹本着色 メトロポリタン美術館所蔵 明治20年頃
「Roosters, Chicks, and Morning Glories」 絹本著色 ウォルターズ美術館所蔵 1890-1900年頃
一年生の頃から大学の教員達(具体的には、S先生とA先生(女子))へ、「僕は、花鳥画や水墨山水といった古くからの日本画を学びたいのです。」「どのように学んだら良いのですか?」という質問を持ちかける場面が何度か有ったけれど、その都度、話を濁すばかりで何も教えては貰えない。
実際には、僕から質問を受けていたS先生とA先生(女子)は、そういう古くからの日本画を学んでこなかったから、教えようにも教えることが出来ないでいる。
しかし、言葉上では
「そういうのを教えようと思えば、幾らでも教えることは出来るのだけど。今の高木くんの腕は、そういうものに目を向けていい段階ではない。」
「そういうのに興味を持つのはいいのだけど、今は同級生達の描く絵を真似して、みんなと同じ様な絵を描けるようになって貰わないと困る。」
という返答をしてくる。
教員達に関して『古くからの日本画を、教えようにも教える技術や知識を持っていないこ』と僕が語っていることについては、僕が教員達を嫌っているから決めつけで言っている訳ではない。
日本の美術史的な観点からも、この教員達の世代は、戦前の日本画を否定したものを日本画として教え込まれている。
その辺りの話も、次第に説明していくつもりではいるのだけれども、アメーバブログで書き綴っていた時と同じ様に、上手く説明しきれずに終わるのだと思う。
そういう背景も少しずつ把握出来てきたこともあり、僕は、教員達へそんな質問や話を振ることもなくなっていた。
動物画の課題
動物画の課題が始まってから、まず、小下図相談で、S先生から却下を繰り返されてしまう。
最初は、湖を泳ぐアヒル(だったと思う)を描こうと計画していた。
でもそれでは、動物画ではなく風景画となってしまっている、という指摘の上で「そういうのはやらない方がいい」といわれる。
それから、廃屋で寂しく鳴いている猫を描こうとするが、これも「やらない方がいい」と返される。
猫が主になった絵だから、風景画になる訳でもなく、許可されない理由が解らない。
そこで僕は
「やらない方がいいということは、逆に、やってもいいのですよね?」
と返す。
するとS先生は「じゃあやっちゃダメ」と返してくる。
この言い回しに、当時の僕は腹を立てていたが、そこは堪えていた。
そこからの説明で、動物画の課題では、動物を画面いっぱいに描かなければならない決まりごとを教わる。
それを何で最初に言わないのか、苛立ちながらもその説明に従う。
その後、二頭の猿の絵を描くことにした。
夕日を背景に、片方の猿が相方のノミ取りをしている絵であり、現代の日本画らしく、絵具の厚みを効かせながら描くことも考えていた。
この頃でも、僕は日本画での光の扱いに迷っていて、運が良ければ、その日本画の光について話を聞けるのではないか、そんな期待も持っていた。
その小下図・下図に関しては、同級生達が手をつけるよりも早くに僕は作業を始めて、下図相談をしていた。
それでも、制作を進める許可を貰うのは、誰よりも遅かった。
因みに、日本画の光については、自分なりにも幾つかの絵を見ながら、自分なりにも良い悪いの基準も考えていた。
家にある「平山郁夫」の画集では、仏画を中心に絵を描いていて、やはり光を描いているのを確認している。
平山 郁夫 「法隆寺の塔」
横山大観と岡倉天心との会話の中で、木々の間から射す木漏れ日のようなものを日本画で描けないかと話している場面を、何かの本でも読んでいて、日本画でも光は描いてはいるのだ。