絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

絵の方向性1 No.30

教員達の教える絵

 美術大学の教員達とのやり取りを何ヵ月もしていると、「教員達の好む絵」も少しずつわかってくる。

 その「教員達の好む絵」の話は、今回の内容には大事なことなのだけど、そこを語るのは少し後回しになる。

 

 僕が大学で学ぼうとしていた日本画というのは、戦前の美人画を一番にイメージしていた。

 そこから幾つもの本を読む内に、学び、描こうとするものも変化していく。

 一年生の授業で、絵具の扱い等の基礎的なことを教えてくれたのは、主にはK先生(女子)だった。

 僕としては、教員達の話はきちんと聞いて、大事そうな話はノートに書き留め、後になってそれを読み返したりもしていた。

 日本画を学ぶ上で、僕のこういう考えは、僕にとっては普通なのだが、生徒全体の同行としては、少し特殊だったのかもしれない。

 例えばK先生(女子)が、日本画の絵具をムラなく塗る方法を説明していると、同級生の中心的な人物達は「俺達は、色ムラを使って絵を描こうとしている訳で、こういうことを知りたい訳じゃない」等と、K先生(女子)が去った後で語り始める。

 でも、その時には課題としてやらされる事であるから、皆はその時期だけは、一応それをやる。

 僕に関しては、そういうものを学びたく思って大学へ来ているので、その課題以降もそれをやろうとする。

 そういう違いも、描きたいものの違いであるから、当時の僕としてはどうでも良かった。

 でも、そういう違いが、後々の大きなトラブルにもなる。

 

 暫くしてから知る傾向として。

 K先生(女子)だけが、戦前の日本画を大切にした技術を大切にしていて、 他の先生達は、戦後の新しい日本画としての絵を描いている。

 K先生(女子)の教える日本画の基礎的なものは、他の先生達もよく理解している大事な基礎であると、僕は当初思っていた。

 それ等の殆どは、描きたいものの兼ね合いから、そういうものから離れているだけで、一応は理解し把握しているものと疑わなかった。

 しかし、戦後に日本画を学び始めた人達は、K先生(女子)が丁寧に教えている段階ほど、細かく基礎を学んではきていないし、大切なものとは考えていない。

 愛知県立芸術大学で学んできたK先生(女子)であっても、大学を卒業してから何年も経過してから大学へ呼び戻されて『あなた達には、本来の日本画ではないものを教えてきました』と謝罪され、本来の日本画について改めて教わったと語っている。

 そこには、美術史的な面での色々な背景もあって、日本画の世界全体が、戦後に『新しい日本画』を目指してしまった。

 その辺りの話に関しては、また後に改めて書いていくつもりでいる。

 そんなこともあって、K先生(女子)が教える日本画の基礎は、他の先生と共通に認識しているものではないし、それをK先生(女子)以外の先生達は軽視している傾向にもある。

 

 戦後の日本画の傾向は、丈夫な麻紙(日本画用の画用紙)を使い、絵具を厚みを持たせて塗っていく。

 美術史のなかでも戦後の日本画は、戦前の日本画を否定し、それまでのやり方を壊して、新しいものを作ろうとしてきた。

 この美術大学でも、一年生の後半以降では、次第にそういうかたちでの描き方を薦められていく。

 名目上は薦めであり、生徒の選択に委ねている筈なのだが、その薦めに同調しない者には、教員達による圧力がかけられる。

 僕の様に、戦前の日本画の様な絵を学び描こうとするには、K先生(女子)との関係を上手くやり、K先生(女子)の保護を受けなくてはならない。

 おかしな話ではあるが、K先生(女子)に気に入られて学んでいれば、他の先生達も、戦後の新しい日本画を強要できないのだ。

 そんな状況に僕が気付くのは、大学の3年生になってからで、僕とK先生(女子)との関係は、お互いに誤解もあって険悪だった。

 K先生(女子)は、僕のことをもの凄く嫌っていると聞いていて、そんなK先生(女子)のことを、僕も嫌いになっていた。

 そうであっても、大学の先生達の絵をチェックした限りでは、僕の持っていないものや学びたいものの多くは、K先生(女子)だけが持っていると認識していた。

 そんな認識を持つ前から、僕はどの先生が嫌いという気持ちを持ってしまったとしても、基礎として学ぶべきことは学んでやる、という気概を持っていた。

 

 そんな考えを持っていたから。

 授業内の何気ない処で、K先生(女子)は「私は、前田青邨(まえだせいそん)の絵が好きです」という発言をしていたのを聞いて、僕は前田青邨のことを詳しく知ろうとする。

 そうすることで、K先生(女子)の考えや絵の深い処も解ってくるかもしれないと考えていた。

 そうして、その前田青邨の画集を幾つかの本屋で探しまわって買い、何度も読み返したり、模写したりもした。

 当時は、携帯電話やインターネットも今程発達していなくて、携帯電話でインターネット接続するなんかもなかった。

 ↓のAmazonのリンクで表示されている画集は、当時に買ったのと同じ本で、この「巨匠の日本画」という本のシリーズも、1年生の内に全て購入していた。

巨匠の日本画 (8) 前田青邨

巨匠の日本画 (8) 前田青邨

 

 そんな風に色んな事を知ろうと動き回り、当時よく感じたのは、日本画の戦前と戦後の変化とその違いである。

 日本画への知識の乏しい者や、興味の薄い者には、その違いなどは小さなものに思えるだろう。

 でも、絵を人生のなかで重要な者として位置付けしている者にとっては、小さなものとは受け取れない者もいる。

 そういう問題なのだ。

 

 日本画の公募展で一番大きな組織は日展で、戦後の日本画の主流は、この組織にある。

 僕の通う大学の日本画教員も、殆どが日展の会員だった。

 そのなかで一人、K先生(女子)だけは院展の会員であり、描く絵の感じも大きく違っている。

 院展に関しては、古典回帰を意識した絵が多いように思える。

 僕が大学で日本画を学ぼうと考えた切っ掛けは、戦前の画家である上村松園伊東深水の描く美人画の様なものを学びたかった。

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【企画展】上村松園 ―美人画の精華― 〔過去に開催された展覧会〕 - 山種美術館

 そういう意味合いからも、僕はこの問題に興味を持っていったし、院展に強く興味を持っていた。

 ただ、この問題への意識や知識の殆どは、僕はK先生(女子)から教わることもなく、僕が勝手に調べて知っていくばかりだった。

 なぜかというと、当時の僕は、K先生(女子)と接触する機会を失っていくからだ。 

 この件で、K先生(女子)という教えられる者がいて、それを学びたいという僕という者もいるのに。

 僕に限っていえば、途中までは『教えてください』とまで言って求めていても、誤解から排除されてしまう。

 逆に、そういうことに対して、それほど興味を持たずに頑張っている訳でもない者達の方が、大学の教員達には可愛がられ、そういう教育を受けられる状況になっていく。

 

 浪人時代に何人かの先生から、芸大や美大での授業・課題制作についての話も、何度か聞いていた。

 芸大や美大の授業では、教員達が『こういう絵を描きなさい』という様な強い言葉や指示を出すことは、滅多にないという。

 そこには、絵画の教育のなかで、過去には間違ったことを教えてきた事例なんかもあったものだから。

 多くの大学の教員達も『こういう絵を描きなさい』ということを言えない。

 でも本音としては『もっと古典を勉強して欲しい』という考えがあり、それを敢えて口にはせずに『自由に絵を描きなさい』と言うそうだ。

 これを語っていたのは、予備校の木路先生や、武蔵野美術大学の先生であったりだ。

 

 この話を何度か聞いてきた上で、僕は美術大学の授業を受けていた訳だが。

 少なくとも、僕が美術大学の授業で経験している限りは、そういう感じではなかった。

 その違いについて、僕なりに解釈しようと努めていた考えはあったが、今になって振り替えると、僕なりの解釈も違っていた。

 僕の専攻しているのは日本画であり、洋画と違っていることや、まだ一年時の授業であるから、自由は与えられない、等と考えようとしていた。

 でも、本当はそういう事ではなくて。

 教員達の認識や力不足によって、教員達の価値観や偏見を、生徒に押し付けてしまっているだけだった。

 僕個人への誤解等もあったかもしれないし、生意気に思える僕がこういうことを語っていく事で、教員達も意地になって嘘をついてしまった部分もあっただろう。

 大学の教員としての経験が不足していて、そういう認識を持っていなかった可能性もあったのかもしれない。