絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

繋がる話2~岡倉天心・渡辺包夫 No.56

渡辺包夫

 高校生か浪人生くらいの頃からだろうか。

 テレビ番組で『開運なんでも鑑定団』という番組が始まっていた。

 僕自身は、高校生の頃からテレビ番組は見なくなっていった関係で、その番組自体は、大学生になるまで見たことはなかった。

 大学生になってから見たテレビ番組でも、絵に関係する番組は大体チェックしていたが、『開運なんでも鑑定団』に関してはバラエティ的に見ていた為、チェックや録画なんかしていなかった。

 何となくテレビをつけた時に、この番組をやっていたら見る、という程度のものだった。

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https://matome.naver.jp/m/odai/2129534562345574601/2132940839775876203

 大学一年生の半ばから後半にかけて、『開運なんでも鑑定団』の古書画の鑑定を担当してい人物の本を、書店で見かける。

 当時の僕は、少しでも多く日本画の情報を収集しようとしていた。

 その本も、僕は取り敢えず手にとって軽く読み、読みやすく内容もそれなりにありそうだと感じ、買って家で読むことにした。

「古書画」目利きの極意―鑑定の鉄人〈PART 4〉 (サラ・ブックス)

「古書画」目利きの極意―鑑定の鉄人〈PART 4〉 (サラ・ブックス)

  • 作者:渡辺 包夫
  • 出版社/メーカー: 二見書房
  • 発売日: 1996/06
  • メディア: 新書
 

 ここからの話は、この本に書かれていることを中心にはしているが、その後に読んだ幾つかの本の内容とも混同しているだろう。

 渡辺包夫という人物は日本画画家で、東京美術学校(今の東京芸大)で横山大観に絵を教わった立場にある。

 この頃の大学での日本画教育は、ひとつの師弟関係でもあり、大学の生徒という状況でも画号を貰っていたそうだ。

 だから渡辺包夫と横山大観は、大学で教員と生徒という関係にはあったが、師弟関係にあったことに間違いはないし、しっかりしたことを学んできたことも確かであるようだ。

 

 本のなかでは、国立の大学(東京美術学校)を設立して、そこで日本画を教えることとなった経緯等も書かれている。

 戦前から、日本には西洋の文化が次々と入り込んでくる。

 芸術・美術に関しても、西洋のものばかりがもてはやされ、今でこそ、国の国宝や重要文化財になるような日本の芸術作品の評価は暴落し、二束三文で海外に流出している状態にあった。

 それ等は、そのまま黙っていれば、時代の経過と共に失われていくであろう文化であった。

 そのような状況にある時代に岡倉天心は現れ、日本に元々ある芸術文化を明確に体系化して、価値のある日本の美術作品の流出を抑えて保護し、日本の芸術文化を後の世に残す為、技術継承の場としての学校を作った。

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岡倉天心 - Wikipedia

 今でこそ『日本画』と言われている分野であっても、その頃にはまだ『日本画』という言葉すらなかった。

 日本に古くからある書画や仏像や工芸品等を研究し、西洋の芸術学との統合性を図りながら整備し、東京美術学校でその技を教える機会を作った。

 当時の東京美術学校には、彫刻や工芸などを学ぶ科はあったが、当初は洋画を学ぶ科はなかった。

 日本独自の芸術文化や技術というものは、これからも続く西洋文化流入によって、黙っていれば失われていくものである。

 その失われていくものの価値を把握し、政府の協力を以て教育の場を作ることが、これからの時代に必要なことである、という思想が根底にあったので、当初は洋画を学ぶ科を設けなかった。

そうして東京美術学校を設立して学長になった岡倉天心を、多くの教員達は尊敬していた。

 東京美術学校には岡倉天心銅像があり、特に、横山大観は学校にやってくると、まずは岡倉天心銅像へと向かい一礼をしていた。

 そういう姿を見ていた生徒達は、そんな教員達を尊敬し、岡倉天心の思想の基で絵を学べることにも感謝していたという。

 

 時代は移り変わり、今の時代に至っているけれど。

 渡辺包夫の考えでは、今の日本画は自分が学んできた日本画とは別のものであると語る。

 時代や社会的な背景もあって、日本画も変化をしてきたけれど。

 今の時代の日本画教育では、岡倉天心横山大観等が教えようとしていた日本画からは、風化して離れてしまっている。

 これでは、古くからの日本画を学ぼうとする者が現れても、それを教えることの出来る者自体が居なくなってしまう。

 横山大観に学んだ渡辺包夫自身も、もう既に高齢で、きちんとした日本画を指導できる者達は次々と他界していっている。

 だから自分が生きている内は、今の時代の人に、自分の学び身に付けてきたものを伝えたいと考えている。

 しかし、今の時代の人は、目を向けている処は違い、学ぼうとする者や伝える為の機会もなく、とても残念に思っていると語っていた。

 

自分のことに置き換えて

 この本を読んだ当時、今の自分は古典的なものを学ぶべきなのだろう、という考えを強めていた。

 その考え方に、S先生とは噛み合わないものも多くあり、僕と教員達との関係をより悪くしていく。

 S先生が僕にかけてくる指示や意見等は、S先生自身が本当にそう考えて述べていることなのか、僕という存在への嫌悪感から述べているのか、当時も今も判断は出来ないことばかりのだが…どちらであったとしても、指導者・教員としては力不足の存在にしか思えないでいる。

 S先生の話では、僕の学ぼうとしていた戦前の日本画(その真似事)等は、やろうと思えば誰でも出来るような、浅いものだという。

 そして、目の前で指導にあたっている教員達という存在は、大学から離れたら接する機会を失ってしまう貴重な存在である。

 だから、少しでも多くのことを学ぶためには機嫌取りもしなければならないし、「自由に絵を描いていい」と言われていても、それを建前上の言葉だと理解して、目の前にいる教員達の気に入りそうな絵を考えて描かなければならない。

 もし教員達が間違ったことを語っていたとしても、生徒である以上は、その間違いにも従うべきであるし、教員達のその言葉を『基礎』そのものとして受け止めなければならない。

 そういう内容の説明を、何度も繰返ししてくる。

 1~2年次のやり取りから、A先生(女子)とI先生に関しても、考えは同じだと聞かされてきた。

 ここで僕が書いているような話を、大学の日本画教員達はあまりわかっていない。

 大学の教員達が、そんなことを知る必要もないという考えを持っている為に、組織の都合や個人の機嫌や、利害関係や権力というものによって、大学で本来教えるべきことを歪めてしまっていたのだ。

 

 そういう教員達の主張に対して、後に知るK先生(女子)の語っていた話や立ち位置に関しては、僕の学ぼうとしているものに近いものを持っていた。

 しかし、そのことに僕が気付くのは、これよりずっと後であるし、僕はK先生(女子)と会話をする機会さえ失われたまま、時間は過ぎていく。

 K先生(女子)の所属する院展は、岡倉天心と繋がりの深い組織である。

 岡倉天心は、東京美術学校の学長を退職した暫く後、日本美術院院展を立ち上げた。

 院展の当初は、私立大学を作って日本の文化を教える学校を作ろうとしていた。

 それでも思うようにはいかず、公募展という形式のもので落ち着いてしまった。

 そのK先生(女子)自身の言葉でも、日本画の基礎といえるものを、きちんと教えることの出来る人物は少ないと語っていた。

 大学の課題のなかで、自由に描いて良いものは自由に描いて良いのだけど、基礎としてのものはきちんと学んで欲しい気持ちがあること。

 きちんとした日本画の基礎を教えられる者達も、今は殆どが高齢になっていながら、それをしっかりと学ぼうとする者もいない(少ない)と語っていた。

 この辺りの考えは、僕の考えや学ぼうとするものと噛み合ってはいる。

 噛み合ってはいても、縁がなかった。

 1年生の頃を思い返すと。

 僕はK先生(女子)からは毛嫌いされていた。

 僕は研究室へ行き、何度もK先生(女子)を名指しにして、教えて欲しい・描いてきた絵を見て欲しいと求めるが、顔を合わせてくれることもなく門前払いにされてきた。

 A先生(女子)から、僕の件でK先生(女子)がもの凄く怒っていると聞かされ、質問を持ちかける行為を止めるように何度も叱られた。

 そんな経緯で、僕もK先生(女子)の存在に嫌悪感を持つようになり、年度末で退職していったことに、本音では良かったとさえ思ったものだ。

 

 僕の学びたいものを多く持っているK先生(女子)には、会話以前に近づくことさえも出来なかった。

 逆に、教えることに嘘臭さばかりを感じ、これ以上は関わりたくないと思うS先生やA先生(女子)とは、いつも接することになる。

 何でこうも、うまく行かないことばかりなのだろうか…等と、画学生の頃はいつも思っていた。

 同時に考えてしまうことで。

 僕がこういった日本画の情報を収集し、統合できてきたのは、大学二年生の半ば辺りである。

 大学での僕は、日本画の誰からも相手にされず、ランダムに本を読んできた程度の知識しか持っていない。

 そんな視点で見ている日本画の知識や世界は、微々たるものの筈だ。

 それに対して、何十年とこの大学で教員をしている教員達や、その教員達に指導を受けている同級生達は、僕よりもずっと深く広い知識や経験や考えを積み重ねている筈である。

 それなのに、どうして未だに、僕側の間違いは見えてこないのだろう…

 僕は一年生の頃から、どこかで僕の間違いや行き違いなどがはっきりして「こういうことだったのか」と、みんなで笑いながら和解していく場面をいつも想像し、そうなることを願っていた。

 それなのに見えてくるのは、教員達の浅はかで胡散臭く矛盾した理屈や、悪意や辻褄合わせといったものばかりなのだ。

 

 因みに、先ほど渡辺包夫のことをネット検索し、Wikipediaで読んでみた。

 渡邉包夫 - Wikipedia

 その渡辺包夫は、1998年10月14日に亡くなっている。

 その頃の僕は、大学や母とのトラブル続きで、そんな報道などに目に気付ける程の余裕もなかった。

 僕はそんなことも知らず、漠然としたいつか、渡辺包夫氏に会ってお話を聞きにいけないだろうか、などと夢見ていた。