日本画制作の為の裸婦デッサン1 No.57
モデルさんへの配慮
裸婦というのは裸の女性である。
裸婦のモデルさんを雇って絵を描くというのは、絵画を学び経験する上では、ととも大事なこととなる。
その分、モデルさんを雇う為のお金や、モデルさんにじっとしてもらう行為や、女性に裸になってもらうこと等、どうしても神経質になったり気を使う部分というのは出来てくると、僕なんかは思う。
しかし、この大学ではそういう感じは薄くて、そういう認識を持っている僕側が意識しすぎなのだろうか?と考えてしまう。
まず、教員達のモデルさんを扱う際の説明は不足している様に思っていたし、その後の同級生達も気を使っている様には見えない。
ポーズの最中に、教員や同級生達は気兼ねなくアトリエを出入りする。
僕が描いているデッサンに対して、教員達のかけてくる言葉は、暴言に聞こえてくるような、疑わしい発言をしてくる。
それを見ている同級生達も、僕のそういう場面を見て笑っていたし、こういう裸婦デッサン等のありかたも、普通に考える様になっていく訳である。
そういうものは、僕が大学へ入学してくる前、僕に絵を教えてくれた人達が、過剰にモデルさんへ気を使い過ぎていた、ということなのだろうか…そんな風に、僕は何度も違和感を感じながら思い返していた。
2年次では、S先生とI先生の2人が僕にかける言葉に、乱暴な言い回しが多くなっていく。
裸婦ではない課題であれば、僕はその場で反論をする。
勿論、一人で少し考えたり調べた上で、研究室に質問・反論的なことをする場面も多かった。
でも、モデルさんを前にした裸婦の課題では、モデルさんのポーズの最中での会話は極力避け、その日のポーズが終わった後に研究室へ話をしに行くように心がけていた。
高塚省吾・竹内栖鳳の本
当時、何気なく読んでいた本のなかでも、画家の立場で、裸婦のモデルさんのことを語っているものは幾つかあった。
そのなか~高塚省吾という洋画家の書いた本のなかで、海外で接した裸婦のモデルさんの話があった。
その本は、↓下にリンクしたこの本だったと思う。
性格や国民性の違いなのか、日本のモデルさん達の大人しさに反して、海外で接してきた多くのモデルさん達は、裸になることへの意識は違っていたと語っている。
海外で接してきた裸婦のモデルさん達は、ポーズ合間の休憩時間でも裸のままでいて、特に恥ずかしがる素振りもなく、独特のストレッチをよくしていたという。
僕はそういう内容の話を読んで、日本人だとそうはいかないだろう、という感想を持っていた。
また別の本になるのだけれど。
日本画画家の竹内栖鳳も、モデルさんに絡んだ話や事件なんかもあった。
パリ万国博覧会が行われた時、竹内褄鳳も万博の会場には出席していた。
しかし、パリ万博のなかで日本画は評判悪く、作家の親睦会でも嫌みな言葉を頻繁にかけられる場面も多く、竹内栖鳳はやりとりに耐えられず、会を途中で退室する程だった。
その後、竹内褄鳳は日本には帰国せず、色んな地域をまわりながら西洋絵画のことを学んでいった。
どこの芸大だったかは忘れたけれど、裸婦のデッサンに竹内褄鳳も混じり、墨と筆で裸婦を描き、まわりを驚かせた話もある。
西洋絵画を学んでいる最中、家族へ送られた絵はがきから、竹内褄鳳の雅号は「褄鳳」から「栖鳳」へと変わっていたとか。
それから、竹内栖鳳は日本へ帰国して、西洋絵画で行われていたことを、いくつも日本画に持ち込んできた。
そのなかのひとつが、裸婦を描く行為である。
それまでの日本画には、実際の女性をモデルとして置き、それを見ながら描くということをしなかった。
そんななかで、竹内栖鳳はそれを始める訳である。
東本願寺からの依頼で、大師堂門の天井画の依頼を受けて、天女の絵を描こうとする。
その為に、お寺のなかで裸の女性をモデルに使い、吊るしたりしながらスケッチ等をするのだが、難航したりモデルの死去等もあったりで、完成することなく終わってしまう。
この、お寺で竹内栖鳳が裸の女性を描いてた行為に対して、けしからんと怒り事件を起こす人物がいた。
1911年(1912年の間違いかもしれません)に開かれた文展に、竹内栖鳳は「雨」を出品する。
この時に、ある人物は雑巾に墨を染み込ませ、その雑巾で竹内栖鳳の展示作品に墨を塗り付け、その後には他の作家の作品にも墨を塗りつけて回った。
そこから、その人物は警備員に取り押さえられ、その行為の原因が『由緒あるお寺で、女性を裸にして写生していたこと』にあったと明らかになる。
この画像にある『雨』は、塗りつけられた墨を、専門家によって除去された以降に撮影されたもので、絵としての強さが失われてしまっていると言われている。
それともうひとつ、『絵になる最初』についての話もしておこうと思う。
この絵を見た当初、何も知らなかった僕には、どういう絵なのか、良い絵なのかどうかもよくわからなかった。
どういう絵なのかを説明すると、この女性は、竹内栖鳳がお願いして雇った裸婦のモデルさんである。
ポーズを始める直前、裸になるモデルさんが、服を下ろすのをためらっているところ。
この絵には、もうひとつ逸話的な話もある。
モネが1875年に描いた『ラ・ジャポネーズ』という作品。
ここからの話は、日本美術史の研究をしている方の講演会で聞いた話。
当時の竹内栖鳳は、海外の画集を買い集めていたこともあり、モネのこの作品や、海外でジャポニズムいう日本ぽさに憧れた流行なんかも知っていただろう、と考えられている。
そして、『絵になる最初』や、下に添付した『アレ夕立に』といった作品は、海外のジャポニズムといった流行から生まれている作品に違和感を感じ、日本人の立場で日本人の女性を描いたらこうなることを表しているのではないか、と言われている。
これ等の話は、証拠的なものはないけれど、状況から見て、そうではないかと考えられている範囲の内容だ。
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話の内容を、本来書こうとしていた内容に戻そう。
竹内栖鳳は、モデルを使って絵を描くことで、こんなことを言っていた(正確な文面までは覚えていない)。
「生身の女性にモデルをしてもらうというのは、どうしても、気を使わなくてはならなくなる。」
竹内栖鳳の生きていた頃は、実際の人物・裸婦を描く行為も、始まったばかりである。
それから100年前後経過した今の時代になって、裸婦のモデルさんに気を使わなくでも良いという考え方が、日本画では普通になっていったのだろうか。
僕が美術大学で、裸婦のデッサン等の授業を受けていても、日本画の人達はモデルさんに気を使っている感じはしない。
どちらかというと、数少ない友人関係を通して見かける彫刻の人達の方が、モデルさんを気にかけている様に見えるが…気のせいだろうか?
大学2年生だった当時の僕は、課題で裸婦関係がある度に、そんなことを考え・思い返していた。