絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

卒業後 No.112

 話の流れとして美術大学は卒業したけれど、カテゴリーにしている『画学生時代』としての話は、もう数回くらい続きます。

 

壊れた心

 美術大学を卒業してからの僕の心は、大学在学中のとき以上に壊れていた。

 というよりは、壊れた部分を、卒業後に認識していったというべきなのだろう。

 母がくびをくくってしまう悪夢は、頻度は少なくなっていくものの、その後もずっと見続けていく。

 大学4年間で受け続けてきた教員や同級生達の暴言は、寝ても覚めても気晴らしをしよいかとしていても、頭のなかでこだまし続ける。

 これは経験しないとわからないかも知れないが、頭に浮かぶというレベルではなく、スピーカーを頭のなかに埋め込まれて、強制的に絶えず暴言を聞かされているような感じだ。

 頭のなかにこだまする言葉と、話しかけられて認識する言葉との違いはわかるけれど、テレビやラジオからの声とは違い、明かに自分へ向けられた言葉と同じくらいに、頭のなかで威力を持っている。

 僕はそれを過去のこととして忘れたいと思うのだが、そんな意思とは関係なく、いつも頭のなかで暴言がこだまして、ずっと頭から追い出せずにいた。

 大学在学中は、苦しいと思いながらも課題の絵を描いていたけれど、卒業後は殆ど絵が描けなくなってしまった。

 大学時代では、課題を提出して進級しなければ、母がくびをくくるかもしれないという恐怖感を感じていた。

 それが絵を描く行為の強制や後押しになっていて、自分が納得いくかいかないかよりも、

課題としての体裁が整っているかが目的になり、どんなにイライラして気持ちが高ぶっていても手を動かしていた。

 美術大学を卒業して、その後押しがなくなり、自分の為の絵を描こうとしても、絵に対しての気持ちや感覚が歪んで体裁的なものにすら行き着かない。

 作業が順調に進んでいても、S先生等から理解できない批判ややり直しの強要されていた時の言葉やイメージや感覚等が沸き起こり、絵を進められない感覚に陥る。

 イライラもあるけれど、主な要因はそこではない。

 手をつけ始めたばかりの絵で、作業的に殆ど進んでいない場面でも、手詰まりした様な、失敗作を描いてしまい手の施しようもなく諦めるしか無いような、そんな感覚に囚われてしまう。

 

 僕はいつまでも、大学のあの先生達とのことに囚われてはいけない、とはわかっている。

 でも、この暴言や感覚の陥りは、自分でも取り除くことが出来ない。

 絵を描いている時ばかりでなく、眠り夢を見ている時や、仕事や本を読んでいるような~何かをしている時にも、必ず僕の頭のなかではこだまし続ける。

 画学生時代に頑張ったことが、逆に自分を苦しめている。

 延々と『頭がおかしい』と言われ続けてきたことで、僕は本当に頭がおかしくなり、絵が描けなくなったのだろう。

 

 それならば、絵を描かない人生を送ることこそ、利口で賢い生き方であることも理解はしている。

 それでも僕は、幼い頃から毎日絵を描くことばかりしていて、絵を描くことを前提にした人生しか選べられずにいる。

 それでいて、絵が描けなくなってしまった。

 絵を描きたいとか、絵を描かなくては、という気持ちや考えは、気持ちの良い感情や楽しい気持ちには結び付かなくなり、絵は祈りではなく、呪いに変わっていた。

 

 それでも僕は、毎日欠かさずに鉛筆や筆を手にとって、何かしらの絵やスケッチ等を描こうとする。

 時間が経過さえすれば、この感じもいつかはどうにかなるだろうと信じて、鈍っていく絵の感覚を、少しでも留めて残そうとしていた。

 大学在学中にずっと起きていた、胃のキリキリとした痛みに関しては、卒業してすぐになくなったこともある。

 そのことからも、全ては時間が忘れさせてくれると楽観視しようとしていた。

 

卒業後

 美術大学を卒業して、僕は京都で古く安い部屋を借りた。

 京都に住む経緯として。

 僕が大学を卒業する前の年、竹内栖鳳の記念美術館が一般公開された。

 竹内栖鳳は、大学在学中に好きになった画家で、竹内栖鳳のことを調べたり絵を模写することで、日本画の多くの事を学んだ。

 そういうことからも、僕は竹内栖鳳の実際の絵を見たり、京都に残る古い文化に触れようと考え、その京都で絵の勉強をやり直して、画家になることを目指すつもりでいた。

 

 でも、先にも書いたように、京都へ移り住んでも、絵がいつまでも描けないで苦しんでいた。

 

 移り住んだ京都の住まいの屋根裏には、雀が住んでいて、竹内栖鳳(たけうちせいほう)の雀の話を直ぐに思い出した。

 師の幸野楳嶺(こうのばいれい)は雀に随分と懐かれていて、その雀たちは師の肩や手に乗って餌をねだったり、手のひらに乗っている餌を直接食べたりしていた。
 それを見ていた竹内栖鳳も、雀と仲良くなろうと頑張るのだが、雀たちはいつまで経っても肩や手へ乗ってくる迄の気を許してくれることはなかったという。

 僕も竹内栖鳳や幸野楳嶺の様に、雀たちと仲良くなれるだろうか。
 仲良くなれなくても、僕が餌をまいて、その餌を食べる雀をスケッチする位はしたかった。

 画学生時代、竹内栖鳳の描いた雀も、僕は何度か模写してきた。
 絵の雀と実際の雀を見詰め、その違いを感じてみたいと考えていた。

 結果としては、数週間ほどで僕を『ご飯のくれる人』と認識してくれた。
 雀たちは餌を求め、僕が手を伸ばせば触れる位まで近付いてくれる様にはなった。
 でも、そこから距離を縮めたり触ったりする関係にまでには、最後までなれなかった。

 雀たちを近くで見てみると、意外と険しい顔をしている。
それでも、ひとつひとつの素振りがとても可愛らしい。

僕はどこかへ出掛けるつもりで、何気なく家を出た時にも、数羽の雀たちは「チチチ…」と鳴きながら僕に近付いてきてくれる。

そんな雀たちの存在が、僕には嬉しかった。

 

 それから、直ぐ側まで来てくれる雀たちをスケッチしようとする。
 しかし、よく動く雀たちを僕は上手くスケッチすることが出来なかった。

 上手くスケッチ出来ない分、竹内栖鳳の画集を引っ張り出し、雀の絵を何度も模写を何度もした。

 この頃は、いつまでもうまくいかないのに、よく雀を描いていた。

 ↓は、その当時に描いた絵で、たまたまデジタルカメラの画像として残っていたもの。

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 京都へ引っ越して、大学在学中に何度も気を遣ってもらったK先生(女子)へ、お礼の手紙を出した。

 その手紙というのは、前回の投稿の最後に書いた話そのものだ。

 お礼の手紙ではあったのだけど、複雑な気持ちが入り交じっていて、逆に、僕は失礼なことをしていたのかもしれない。

 それから何度か、そのK先生(女子)と手紙のやり取りをする。

 そのやり取りの終わりまでの話を、カテゴリーとして分類している「画学生時代の話」とする。