繋がる話1~竹内栖鳳 No.55
今回の話は、前回に投稿したテレビ番組の話に繋がる話である。
偶然なのか、必然なのか、当時の僕は竹内栖鳳に興味を持っていて、番組内で解説の中心となるパリ万博には、その竹内栖鳳も絵を出品し、パリでの交流会にも出席している。
竹内栖鳳の件だけではないのだけど、それまでよく解らないと思いながら読んできた幾つかの話が、番組の内容に直結していた。
そういうこともあり、もう少し細かく、竹内栖鳳について書いていこうと思う。
竹内栖鳳 概要
竹内栖鳳の産まれた京都は、古い町並みや文化を残す。
この町並みや文化を作り、残す意味合いにはこんな話もある。
戦国時代の戦乱時、天皇は京都に疎開していて、天皇の居る町としての町並みや文化を作ってきた。
戦国時代を終えた後、天皇は東京に残り京都には戻らなかった。
京都は、またいつか天皇が戻ってくることを考えて、その町並みや文化を残すようになった。
この経緯あってこそ、京都は古い文化を大切にする特殊な土地となる。
竹内栖鳳の産まれた時代は、まだ「芸術」や「日本画」等といった言葉も出来てはいない頃。
この言葉達も、意外と歴史の浅い言葉なのだ。
日本画の公募展の様なものを開いても、狩野派や円山派など、複数の流派が一緒に競うことはない時代だった。
そんな時代に竹内栖鳳は産まれる。
西暦で言えば、1864~1942までの戦前の画家。
本名は竹内恒吉(たけうちこうきち)。
料理屋の跡取り息子として産まれた為、本来なら画家になる筈はなかった(その辺りの話は省いてしまうけれど)。
画号という、絵を描く際の名前の「栖鳳」は、師の幸野楳嶺(こうのばいれい)から貰った。
最初は「棲鳳」という画号を貰い、暫くして「栖鳳」の字へと変えた。
読みは「せいほう」なのだが、研究家の間では、字を変える前の「棲鳳」を指して「つまほう」と読んでいるとも聞く。
この画号の字をいつか変更することも、師の幸野楳嶺は視野にいれて、棲鳳という画号をつけたという説もある。
そして、日本で一番最初の文化勲章を、横山大観と共に貰っている。
僕の大学時代の前半は、大学で教え込まれ強要される基礎について、最初から違和感を感じ、疑問に思っていた。
その基礎だという日本画の話は、本当に基礎なのだろうか?
指示してくる教員なりの考えや都合によって、「基礎」などという言葉に置き換えられ、事実とは違う処へ誘導されているのではないだろうか?
そんな風に感じる僕の疑問について、主には竹内栖鳳のことを知る度に、その違和感への答えが提示されているような感じがしていた。
パリ万国博覧会
ここからの話は、以前のブログで書いたパリ万国博覧会の話とも重複する。
1900年に行われたパリ万国博覧会。
竹内棲鳳もパリ万国博覧会には作品を出品し、その博覧会に出席していた。
そのパリ万国博覧会後、竹内棲鳳は暫く日本には帰らず、西洋の絵画の事を知ろうとして、幾つかの国をまわって研究していた。
竹内棲鳳の画号が「栖鳳」に変わったのは、この西洋での研究の最中で、日本の家族に向けた手紙のなかで「栖鳳」の字に変わっていたとこと。
竹内栖鳳は日本に帰り、京都新聞の紙面の中でこんな内容の発言をしている。
『日本の絵画と西洋の絵画の一番の違いは、気候や風土の違いにある。
自然への見方や絵画への考え方に関しては、日本と西洋は大きく違うものではない。
これからの課題としては、日本は暫くの間、西洋の良いところを学び吸収すべきと考える。』
それからの竹内栖鳳は、それまで日本画には無かったものを幾つも持ち込んできた。
それまで日本画では描かれなかったモチーフも積極的に描き始めた。
日本の古い記録のなかで、実際の人物をモデルに使い、その人物を実際に写生したり日本画の描写としたのも、日本画の世界では竹内栖鳳が一番最初だと言われている。
今では、絵画の基礎訓練の為に石膏像デッサンをやる場合もあるが、日本画の世界に石膏像を持ち込んだのも、竹内栖鳳が一番最初だと言われている。
(あくまでも、世の中に現在残っている記録上の話であり、記録には残ってはいなくても誰かがやっていたという可能性を否定するものではない。)
パリ万国博覧会以前の話となるけれど。
竹内栖鳳の生きていた時代に、日本は西洋の芸術観念に触れ、ようやく「芸術」とか「日本画」や「洋画」という概念ができた。
元々、日本で描かれていた絵はあり、それを西洋絵画に対する「日本画」という言葉に当てはめた。
「洋画」という言葉も、「日本画」に対しての言葉である。
その日本画の概念を作っていったのは岡倉天心という人物で、竹内栖鳳や師の幸野楳嶺なども、岡倉天心の講演会には出席するなどしていた。
現在の芸大は岡倉天心によって、大学での日本画の教育を行う必要性を語り、計画し進められたものだった。
計画自体では、東京芸術大学(当時は東京美術学校)の計画が最初だったが、その実施の前に、今の京都市立芸術大学が作られている。
それまでの日本にあった絵の文化を概念化して出来た「日本画」というものを、体系化し、教育環境を作り、発展させようと模索していく。
そんな時代でもあった。
新しい日本画
話が少し横道にそれてしまったかもしれないので、話を竹内栖鳳に戻す。
この竹内栖鳳自身も、実際に西洋絵画に触れ、新しい日本画の模索を行っていた。
竹内栖鳳「ベニスの月」
パリ万国博覧会以降の日本画は、西洋の良いところを取り込む考えを持ち、多くの日本画画家は洋画と変わらない表現まで行いはじめた。
そうやって、西洋の文化を取り込んで発展してきたのが現代の日本画だった。
僕個人は、日本画の歴史としてなら、この辺りまでは良かったと思っている。
しかし、ここからの日本画(いま)はどうなのかを考えると、曖昧で、日本画の範疇ではないものに変わってしまったように思える。
竹内栖鳳に関しては、西洋絵画に触れる前まででも、日本の絵画のことを良く理解していた。
動物を描けばその動物の匂いまで描く画家と噂されていた程の腕前。
そこからパリ万国博覧会を経由して西洋絵画に触れて飛躍していった。
海外で西洋絵画を学び、日本に帰ってきてから話していたことで、こんな内容の発言もある。
『本来は西洋の絵画を学ぶつもりだったのだが、逆に日本の絵画の性質ばかりを知る結果になってしまった。』
日本の絵画を知っていて、それから西洋の絵画を学ぶ。
竹内栖鳳前後の時代なら、こういう流れで学べたのが良かったのだろう。
しかし、今の時代では、何がそもそもの日本画で、何が西洋絵画から持ってきたものかも、美術大学の教員側からして理解していない。
僕の時代の日本画の教員たちは、『パリ万国博覧会以降の新しい日本画を模索している教員・画家達から日本画を学び、その学んんだ人達』から、日本画というものを教わり学んだ世代である。
解り辛い言い回しになっているけれど。
古い戦前の日本画を知った上で、新しい日本画を開拓していった人達から、今の画家や教員達は2~3世代後なのだ。
だから、古い日本画をあまり知らずに、新しく開拓した今の日本画を、伝統やら基礎などという言葉をこじつけながら当て嵌めて、そういうものだと教えている背景もある世界なのだ。
そういう教員達が、今は美大や芸大の教育の中核となる世代へと移行していったのだ。