盗難とその後1 No.50
自由課題での模写
動物画の課題の最後の辺りで多くの画材を紛失したことで、そこからの課題にもその影響は受けてしまう。
動物画の後の自由課題では、画材が足りないこともあり、水墨淡彩という感じのものをやっていたと思う。
(といっても、課題としては許可されず、やり直しを強要されるのだけど)
墨を中心に絵を構成していて、色(絵具)の使う量も少なく済ませようとしていた。
ただ、盗難に会わなくても、こういう絵はいつかはやろうと考えていたもので、良い機会かもしれないという考えもあった。
当時の僕は、竹内栖鳳に強く興味を持っていて、竹内栖鳳や円山派という日本画の流派に関連した絵や本を読んでいて、その影響によるものでもある。
竹内栖鳳《羅馬之図》(左隻)
明治36年(1903)
竹内栖鳳《羅馬之図》(右隻)
明治36年(1903)
この時に限らずいつものことなのだが、この絵も制作途中から、S先生の反対する圧力は強かった。
僕の腕が悪いとは一年生の頃から言われていて、それに加え、絵具の厚みを持たせた塗りかたをしないことや、戦前の日本画に学ぼうとする姿勢まで、全てが悪いと責められていた。
その責めたてが、本当に僕の腕や関心を持つ分野に問題があってダメと言われているのか、大学の意向としてダメなのか、S先生を中心とする何人かの教員の我儘や意地や僕への敵意としてダメと言っているのか、そういう部分でわからなかった。
もし、僕への敵意や悪意によるものであって、それを何等かのきっかけで取り除けたとしても、このS先生には教員としての力がないことは、薄々と感じ取っていた。
だから、僕としては他の教員と話を聞きたいのだが、2年生は2年生の担当教員であるS先生以外に絵を見て貰えないルールがあるらしい。
こういうルールも、恐らくはS先生の嘘だとは思うのだが、僕はそのルールに縛られ、他の教員に絵を見て貰う機会は失う。
S先生の言葉からは、昔の日本画は程度が低くて、そういう絵を学び志すことはやめなさいとのことだった。
1年生の頃、授業ではK先生(女子)が、絵具の扱いなどを幾つか説明を受けた。
鉄で線を引いた様な強い線を描く技法で、鉄線描というものがあり、その鉄線描に関しては、その後の学年でもずっと使うことになるのだが。
薄くムラなく塗ったりする様な描き方は、1年生のその時だけの描き方で、2年生以降ではやってはいけないのだという。
(これもS先生の嘘のひとつだろうと、僕は考えている)
しかし、大学の教員全員が『古い日本画に興味があるなら、模写をやるばいい』という発言を生徒にはよく語る。
だから、僕は何度かの課題やり直しを経て、模写をやることとする。
模写として題材に選んだのは、竹内栖鳳の『蹴合い』だった。
竹内栖鳳『蹴合い』
この時の自由課題では、50号というサイズの指定はあった為、画集で見る小さな絵を見ながら、指定のサイズに大きく描くことになる。
小下図でも、S先生とたまたま一緒にいたK先生(男子)に模写の許可を貰い、制作を進めていた。
そこから、本画制作の途中経過を見せる為、その絵を研究室へ持ち運んだときに、S先生から「摸写はダメ」「課題以外でなら好きなだけやれ」といって、何を描くかを練る最初の処からのやり直しを強要される。
その後、僕がどんな絵を描いたかは思い出せずにいるけれど、やはり提出期限には完成せず、提出できないとふて腐れていた。
2年生の課題制作では、こんなやり取りばかり幾つも続き、学年の後半では、S先生に相談や許可を貰ったりもしないまま、僕は勝手に制作を進めていく様になっていく。
そうでもしないと、提出期限にはどうしても間に合わないのだ。
それから半年くらいして気付くのだが。
提出期限内でなければ課題を受け取らないなどと言われていたのは、生徒のなかで僕一人だけだった。
大学で制作を諦めた僕には、そんな状況もすぐにはわからなかったし、提出期限を過ぎて課題を提出する生徒は、いつも一定数はいた。
教員達の描かせようとする絵
僕個人に関しては、戦前に描かれていたような日本画を学ぼうと考え、この大学の日本画を専攻していた。
そのことをS先生は、把握している上で、僕の描き学ぼうとする絵を「そういうものは、大学でやる程のものではない」と語り否定していた。
それならば、生徒は何をやるべきなのかといえば、教員の絵のコピーをして、そこから学ばなければならない。
自由に絵を描いて良いと言われていても、教員達の都合や目の色を伺い、教員達の許してくれそうな範囲を生徒が察して、その範囲内で絵を描かなければならない。
僕がこれ迄に、予備校や他の美大・芸大関係者に聞いてきたような自由の意味合いは、この大学や日本画の世界には無いのだという。
一応、いま大学などで日本画を学んでいる人の為、誤解のないように説明しておく。
今の時代の美大や芸大では、僕が受けていたような強要は、基本的にはしない。
日本画の師弟制度のようなもので、師の絵を弟子が真似ることはあるにはあるのだが、そんなのを強要して指導としていたのは、明治や大正時代の一部の流派だと思う。
僕が何も知らないと思い、S先生側も適当なことを口にして、日本画の伝統とかしきたりを語って、強引に言うことを聞かせようとしていただけの話だ。
こういう教員の強要というのは、教員の勉強不足や片寄った考えや、特定の生徒が気に入らないという状況から、たまに起こってしまうことらしい。
僕の場合は、そのたまににあたっていたのだ。
S先生は僕に対して、頻繁にこんなことを語り、僕は話の区切りとなった場面で「それは全部嘘ですよね?」と返答していた場面もあり、S先生は余計にムキになり、嘘の上塗りをする。
時代的な問題もあって、日本画を教える多くの人達が、戦後の新しい日本画を手探りで作ってきた者達から日本画を教わってきた。
だから、1年生の頃にK先生(女子)が教えていた、古典を根拠とした日本画のことがわからないのだ。
勿論、僕もわからない人間の一人ではあったが、僕は手探りでそれを知ろうとしていたのに対して、特にS先生は、程度の低いものとして見下し否定している。
そんな者達とのやり取りであるから、いつまでも噛み合うことはない。
同時に、S先生は僕のことを、感情的になって悪く見ようとする気持ちを強め続ける為、物事を正しく見ることも出来なくなっていた。
公募展への出品
2年次の後半から、公募展への出品を希望する生徒に対して、大学の教員達はその支援をしている。
大学の教員の殆どは日展の会員でもあり、毎年、地元の新聞で日展の入選◯人といった記事で、大学の教員達の指導力のアピールも行っていた。
僕自身も、その公募展への出品に対しては、1年次から強く希望することを語っていた。
そういう背景もあって、教員や同級生達と険悪な関係になっている僕を、その活動から排除するという意味合いも、S先生とI先生とA先生(女子)の言動にはあった。
だから、僕が公募展への出品を希望しても、普段の課題の進捗状況が悪いのを理由に、僕だけは参加を拒否されてしまう。
あれから20年前後の時間が進んで、日展改組が行われた。
日展改組は、書の部門の不正問題を切っ掛けとして語られているけれど。
ピラミッド型の組織形態を改めたという世間への報告と、僕が大学の日展会員でもある教員達と揉めてきた過去については、根底の部分では同じ様に考えてしまうのだ。