絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

1年生の後半。没骨法と鉤勒法と朦朧体 No.42

課題の提出期限

 1年生の後半は、提出期限に苦しんでいた。

 

 僕は課題を1枚ずつ丁寧にやろうとして、時間をかけすぎてしまう。

 でも教員達の視点では、僕の絵は絵具を厚みを持たせて塗っていないことから、水彩画みたいなもので制作時間は短い筈だ、という決めつけがあった。

 だから、無駄に時間をかけて作業することを求められていた。

 下図やその前のスケッチであっても、本制作並みの描き込みを僕だけに指示していたし、僕もその指示には従っていた。

 日本画の本画(本番)の制作で、何十時間もかけて計画的に進めてきた絵でも、その計画を無視し、壊すことを強要されていた。

 その状況に負けないようにと頑張ってはいたが、自分が納得いくまで描き込めたのは数点の課題だけで、その数点も提出期限を過ぎてから完成している。

 省いてしまった話では、ゴールデンウィークや夏休みにも宿題として課題が出されていて、その夏休みの宿題を終えたのも正月明け頃である。

 

 夏休みに出された水彩絵具での自画像なんかも、サイズ的な問題もあるが、100時間以上の時間をかけて完成させた。

 100時間以上と言っているが、時間がかかり過ぎていることに情けなくなり、途中で時間を計るのは止めただけで、本当はもっと長い時間をかけている。

 髪の毛の一本一本の位置関係まで正確に捉え、光の反射による色の変化まで、しっかりと塗り分けていた。

 位置関係のズレや色合いが納得いかない等で、ぬるま湯で絵具を部分的に洗い流して、また塗り直したり。

 そんなことをしながら、水彩画に100時間以上の時間をかけていた。

 当時、僕が持っている腕を出しきって描いたものである。

 日本画の課題のなかで、その水彩画の自画像にトレーシングペーパーを乗せて、アウトラインを写しとり、その写しとった線を使い日本画制作をやる、という課題でもあった。

 しかし、僕はその通りには出来なかった。

 トレーシングペーパーでアウトラインをなぞるのであっても、そこまで苦労した絵に傷や凹みを作りたくない気持ちが生まれていた。

 あの細かく気の遠くなる苦しい作業を、同じ絵でやらなければならないのが堪えられず、日本画制作用に、デッサンを描いてそれをトレースに使った。

 後になって、同級生達のスケッチや水彩画やデッサン等をたまたま見る機会があって(課題の返却時)。

 僕が何十時間とかけて描いている時の課題を、同級生は5~6時間とか、短いのだと2時間等と記入して提出していたのを見かける。

 僕に対してだけ、教員達はそういう指示を出していて、僕もそれ以上の労力で応えていたことはいい。

 しかし、僕はそれなりのものを描いて提出しているのに、基礎を知らない素人が描いたかの様な、数時間のデッサンや水彩画を提出している者よりも、僕の評価や腕の認知は低い。

 僕のなかで。

 大学での絵は、教員達に評価される為ではなく、自分の向上の為で必然的にやっていることと自覚していた。

 それでも、ここまでやっていながら教員や同級生達からは『誰よりも力がない』と馬鹿にされ続け、普通の生徒としては扱われない。

 逆に、本人は頑張っているつもりはあるかもしれないが、力はなく、課題として最低限のことしか行っていない者達の方こそ、褒めて力を伸ばそうと大事にされる。

 そんな状況に、僕の心はすさんでいたと思う。

 絵を描くことを妥協しようとは思わないが、教員や同級生達との関係は、もう悪いままでよいと考える。

 同時に、関係を修復する手段など、僕にはもう残っていないとも考えていた。

 

課題の圧迫

 一学年の前期(前半)での課題が、一部は正月明けに終わっている程の状態である。

 後期(後半)の課題制作も、期限を過ぎても終わらない状態に苦しんでいた。

 課題のひとつひとつを大事に制作しようとする気持ちが、年度末の進級問題を圧迫する。

 絵を学び描くことは大事だが、進級することは同じくらい、別の視点では、それ以上に大事なことである。

 進級する為には、年度末の特定の日までに全ての課題を提出しなければならず、手を抜いた課題制作が必然となった。

 

 それまで、ひとつの課題に1~2ヶ月かけていたものを、酷いものなら1週間くらいで終わらせて提出した。

 僕は、色んな絵を描けるようにと努力していたこともあり、S先生やA先生(女子)の好む様な、絵具の厚みを持たせた絵も平行して描いていた。

 あくまでも僕なりの考えだが、彼等の好むような絵は、デッサン的な感覚さえ磨いていれば、割り簡単に描ける。

 皮肉なことに、毎日色んなことを我慢しながら、時間をかけて寝不足になりながら描いたものより、手を抜いて1~2週間で描いたものの方が、S先生とA先生(女子)は評価してくれた。

 この状況からも、僕は、S先生A先生(女子)への不信感を募らせる。

 

没骨法と鉤勒法

 大学では教えて貰えなかった話ではあるけれど、日本画を描くやり方には、没骨法(もっこつほう)と鉤勒法(こうろくほう)とで分けた考え方もある。

 大学で教えている日本画は鉤勒法であり、輪郭線を描き、それから色を塗っていく線で捉えた描きかたとなる。

 逆に、鉤勒法は線ではなく、形の塊や色から塗るもので、面で捉えた描きかたとなる。

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寺崎広業 竹内栖鳳 竹雀 双幅 | 古美術瀬戸

 大学で一律的に教えているのは鉤勒法であり、洋画の基礎としてやってきた面で捉える描きかたとは、感覚的に噛み合わないでいる。

 それを、僕は自分のなかでどう噛み合わせたり、共存させようものかと苦労している経緯もあった。

 

 戦前の日本画では、粉本主義という、模写から絵を学ぶ指導が主流だった。

 師の持つ模写のお手本を、弟子が描き写しながら学ぶ。

 模写をすることで、色んなモチーフを手と心で覚えるまで写しとるのである。

 戦後の日本画は、殆どが、そういうものとは大きく異なっていった。

 戦後の日本画は、西洋絵画と同じく風景やモチーフをスケッチし、そのスケッチを基に絵にしていくものだ。

 日本画の制作の過程で、下図というものを作り、それをトレーシングペーパーで写しとる等して、本画の制作に入っていく。

 トレーシングペーパーで写し取った線を、墨でなぞって描くのを骨描きというが、これを鉤勒法という描き方となる。

 下図やら骨描き等もなく、いきなり紙に色を置いて描き出すやり方もあって、それも没骨法と言うのだろう。

 

 ただ、戦前の日本画では模写を中心にした学び方をして、没骨法と鉤勒法はその上でやっている事である。

 戦後の日本画は、戦前の日本画の様なことを学ばず、画材の違いだけによって日本画と呼ばれているものが殆どとなった。

 そういうことから、鉤勒法はまだしも、作業の様式から、没骨法という言葉をこんな感じで語ってしまうのも、少し違うのかな、と僕は思ってしまう。

 

 この没骨法と鉤勒法についても、僕は一年生の頃に、大学の教員達へ質問として持ちかけたことはある。

 結局は『そういうことに興味を持つこと自体、止めた方がいい』という返答だった。

 いま思い返せば、あの先生達だからそういう返答になるよなぁ~と思ってしまう。

 それでも当時の僕は、こんなことであっても日本画のことを知ろうと、色々と本を読み漁っていた。

 

朦朧体

 僕は1年生の後半から、没骨法日本画を描こうと努力していた。

 もっと細かな話をすると、浪人時代に消具類を使わずにデッサンを始めたことや、クロスハッチングを始めていたことも、 没骨法を意識したものだった。

 一度、墨や絵具を紙に塗ってしまうと、そこの墨や絵具は消せなくなってしまう。

 それでも、自信を持って墨や絵具を紙に塗っていける技術や経験を積もうという考えが、クロスハッチングというものに行き着いた。

 その当時は、クロスハッチングという技法や技法名も知らず、僕が編み出した独自の技だとさえ思っていた。

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 クロスハッチングを多用したデッサンを多くやり、デッサンで使う鉛筆もボールペンへと変わっていった。

 モチーフを線で捉えて描くというのは、モチーフのアウトラインや背景との境界線をなぞっている行為である。

 これも細かな話ではあるが、そもそもモチーフには、アウトラインや線の境界線など無いのだ。

 モチーフのアウトラインや線に見えるものは、曲線の回り込みで面が密集したものや、背景とモチーフの境界線がそう見せているのである。

 僕のクロスハッチングの線には、そういった考えも盛り込まれている。

 とはいっても、僕は鉤勒法を否定するつもりはないし、鉤勒法や線については、それはそれで別にしっかり学びたいとは思っていた。

(日本画の線について、一番しっかりした考えを持っていたのはK先生(女子)ではあった。

しかし、そのK先生(女子)は僕を嫌い避けているとのことで、大学で線について学ぶことは諦めていた。)

 

 そうして、線から離れた考えで絵を描いていくと、いつの頃からか、色や形のボケた様な絵が出来上がってくる様になっていった。

 この話は、時系列で言えば主に2~3年生の辺りで困り、一番悩んでいたことではある。

 ここで書いていくには脱線した内容になるのだけど、2~3年次の話ではこの話には触れないと思うので、ここで書いておこうと思う。

 たまたま何かの本で読んだ話では~

 西洋絵画の印象派の画家は、光や色を追っていくことで、描いたものの形や色が光のなかに溶け込んでしまい、色のボケた絵を描き、そのことに悩んだ者が非常に多いそうだ。

 その話を読んで、僕が色のボケた絵を描いてしまうことに酷似している様に思えていた。

 そんな話を知ったのと同じくらいの時期、朦朧体の話を知る。

 

以下、Wikipediaから引用

概要編集
岡倉覚三(天心)の指導の下、横山大観菱田春草等によって試みられた没線描法である。洋画の外光派に影響され、東洋画の伝統的な線描技法を用いず、色彩の濃淡によって形態や構図、空気や光を表した。絵の具をつけず水で濡らしただけの水刷毛を用いて画絹を湿らせ、そこに絵の具を置き、空刷毛で広げる技法、すべての絵の具に胡粉を混ぜて使う技法、東洋画の伝統である余白を残さず、画絹を色彩で埋め尽くす手法などが用いられた[1]。

 朦朧体 - Wikipedia

 この朦朧体の試みは、岡倉天心から横山大観菱田春草等に対して「木漏れ日のようなものを、日本画で表現できないだろうか」といった内容の話を持ち掛け、始まったものだった。

 この朦朧体の言葉もマスコミ関係が、色のボケた横山大観菱田春草等の絵への批判を込めて作った言葉だという。

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横山大観 「菜の葉」

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この朦朧体(もうろうたい)という日本画での言葉を知ったのは、大学3年生の辺りだと思う。

 僕が、1年生の後半から時々描いてしまう色のボケた絵であるけれど。

 特に2年次に、制作途中でそういう感じに成っているものは、意図せずにそうなってしまった絵に対して、S先生からは「抽象画やっている」といって怒られていた。

 

 西洋の印象派の話や朦朧体の知った以降、どうしても考えてしまうことがある。

 この大学の教員達は、戦前の日本画を学ぼうとしたり、僕のような作画の苦労をした経験もないのだろう。

 こちらがどういう考えを持ち、どの様な絵を目指したのか、上手くいっているのかいないのか、そんなことも気に留めず、一方的な考え方を押し付けてくる指導をしているのである。

 だから、僕が日本画らしい勉強をしていても、その過程の苦労や意味合いが全く理解できないのだ。

 大学の日本画教員でありながら、日本画について不勉強だから(力がないから)、まともな助言や協力もできず、気に入らないからと放ってもおけず、否定し怒り叱りつけることしか出来ないのだ。

 僕側ももっと早い時期に、こんな人達の胡散臭い話に見切りをつけて、指示や指摘や命令も適当に聞き流していたなら、これ迄より遥かに良い勉強や成果に向かっていただろう。

 S先生やA先生(女子)の話が胡散臭く、教員として力がないことも、1年の半ばあたりでは薄々と気付いていたじゃないか…そんな後悔を、後々に繰り返ししていくことににる。