絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

K先生との手紙とその背景3 No.115

最後に送った手紙

 引き払った京都の部屋宛に、K先生(女子)から展覧会の案内が来ていて、そこから実家にいるの僕の処へその案内は転送されてきた。


 僕はこれ迄に、何度もK先生へ手紙を書きかけては捨てていた。
 自分の気持ちや考えがまとまらず、手紙を書くことに時間をかけるほど、自分の悩んでいることを相手にまで押し付けている行為になっているような気もしたり、いつものイライラで苦しんでもいた。

 思えば、最後にK先生(女子)へ手紙を出してから、もう半年から1年くらい経過しているのではないか。

 この何年かで、自分の納得する絵が1枚でも描けていたなら、今の自分は違った存在で居られただろう。
 でも、僕はそれさえも出来ず、時間ばかり経過していた。

 そういう事柄からも、僕はもうK先生(女子)には関わるべきではないのだろう、そんな考えに移り変わっていた。

 

 K先生(女子)のことを考えると、いつも同じ出来事を思い出す。

 画学生時代に、K先生(女子)から僕に掛けられた言葉と、それに関連したこと。

『あなたに何かを教えたことが、他の先生達に知られると、私の立場が悪くなる』

 この言葉と同じ性質を持つであろう言葉で、洋画のM先生は『君の話を聞いてしまうと、俺はくびを括らなくてはならなくなってしまう』というものもあった。

 洋画のM先生だけではなく、彫刻のK先生も、僕と日本画教員のもめごとの仲裁役として間に入りながら、同じ様な発言をして、日本画教員達の肩を持つことをしていた。

 それでもK先生(女子)は僕に対して、課題や絵について何度か言葉をかけてくれた事柄はあった。

 そのK先生(女子)だけが唯一、大学生活の後半で、まともな言葉をかけてくれていた。

 そういうものを感じ取ったからこそ、僕はK先生の存在を信用したいと願っている。

 信じたいと願いながらも、同時に疑う心も棄てられずにいる。

 そう考えてしまうのは、K先生(女子)も同様に酷い人だと考えた方が、気持ちの割り切りもでき、僅かにでも気分は楽になるかもしれないからだ。

 こんなことをいつも考えているから、僕はこの件を風化出来ず、毎日同じ考えで頭は巡り続ける。

 しかし、京都から北海道の実家へ戻ると決めた辺りから、考えは一歩だけ前進する。

 もし、このK先生(女子)という存在が、僕が本当に願ってきた様な信頼出来る人であったなら、僕はこれ以上、K先生(女子)の近くをウロウロして甘える訳にはいかない。
 僕と関わっていることは、K先生(女子)には多くのリスクであって、そんな人に、これ以上の迷惑やリスクを負わせることはできない。

 少し、話は跳んで見えてしまうかもしれないけれど…

 既に亡くなっている渡邉包夫という日本画画家の本のなかで、『しっかりとした日本画の技術を教えられる人物というのは貴重で、今(当時)は殆どが歳でなくなりつつある』という主張をしている。

 いま大学の教授をしている様な人の指導であっても、渡邉包夫の学んできた日本画とは違っていて、日本画の文化や技術の継承が年々困難になってきているという内容が、↓下でリンクした本のなかで書かれていた。

 K先生(女子)の様な存在の位置付けが、渡邉包夫の考えのなかでどの様なものになるかはわからない。

 でも、僕が学びたかった日本画の技術という面でいえば、K先生(女子)はその多くを知っている人物であった。

 院展という美術団体に所属している処からも、そこは僕にも信頼できる要素だった。

 だから、僕もK先生(女子)に教えを求めれば、K先生(女子)も迷わずに教えて貰えるだろう。

 とはいっても、僕は自分でもどうしたらよいのかわからない程に、絵が描けなくなっていた。

 大学入学前や高校生の頃の様なレベルで…というのではなく、絵を描いていても制作を進められない、完成まで持っていけない。

 大学でのトラブルがトラウマになっていて、手紙であっても、K先生(女子)と絵についての深いやり取りになっていった時に、僕の心がどうなっていくのかも不安で一杯だった。

 そういう僕がK先生(女子)と接することで、いまK先生(女子)を慕い学んでいる者達との関係や立場をも、潰してしまう状況を考えてしまう。

 こんな僕一人の存在の為に、現在やこれから接していく生徒達への貴重な指導を邪魔してはいけないのだと思う。

 彫刻のK先生や洋画のM先生も、僕のように教員に目をつけられ、教員達によって学生生活を滅茶苦茶にされる生徒というのは、どこの大学のどの科であっても、必ず一定の割合で居るのだと語っていた。

 そういう生徒に関わると、教員間ではロクなことにはならない為、まともに対処なんか出来ない、という開き直りの言葉も卒業時にはかけられていた。

 僕はそういう存在なのだ。

 これ以上、僕とK先生(女子)がやり取りをしても、何かが進展する訳ではなく、逆にK先生(女子)の立場を台無しにしていくばかりだろう。

 だから、僕という面倒な存在から、K先生(女子)を解放してあげるべきだろう。

 大学を卒業したときも、お礼の葉書を書いたりせず、僕は黙って去るべきだったのだろう。

 これからもし、何等かの可能性があったとしても、それは未来のいつか、僕が自身の問題な克服できたとき以降であり、それはその時から考えることなのかも知れない。

 考えがまとまってしまえば簡潔なもので、こんなことに、なぜもっと早く気付けなかったのだろうか、とも思っていた。

 

 当時の考えをうまく書ききれてはいないのだけれど。

 大体こんな感じで考えが固まっていた頃に、K先生(女子)から展覧会の案内が届く。

 そのK先生(女子)の厚意に無視も出来ず、もう1度だけ手紙を書いて出すことにした。『展覧会の案内、ありがとうございます。

 京都の部屋ですが、既に引き払い、今は北海道の実家に居ます。
 そして、この住所からも近い内に引っ越していくつもりでいます。

 突然ではありますが、K先生とはこのお手紙でお別れをしようと思っています。

 そもそもの問題は、洋画の基礎を学んできた僕が、大学で日本画を学ぼうとしたことにあります。
 大学の日本画教員や同級生たちとのトラブルの原点も、殆どが日本画と洋画との考え方の違いにあったと僕は考えています。

 そういうやり取りの末に、大学の日本画教員達から教わってきた事柄も、矛盾やデタラメとしか思えないことばかりです。

 大学を卒業してからも、日本画に関係した色んな本を読む度に、あれもこれも嘘ばかりだったのだと知り、どうしても腹立たしさばかりが湧いてしまいます。

 そして、あれから何年も経っているのに、僕は未だに大学時代の嫌な思い出を頭から振り払えずにいます。
 いつまでも大学での事を忘れられないままでいるのであれば、K先生ともお別れしなければと、これ迄にずっと思って来ました。

 そういうことですので、この手紙を最後にK先生とはお別れにします。

 僕という存在には何の価値もなくて、A先生(男子)でさえ、担当教員だった時期に何十回と話しかけても一切相手にしないことを徹底されていたほどです。

 僕はその程度にしか扱われなかった存在なので、K先生(女子)もこれ以上は僕に関わらない方がよいと思います。

 本来であれば、K先生からのお心遣いに色々と返さなければいけないのでしょう。
 でも、僕は礼儀を知らない者なので、どの様に礼儀を返すべきなのかも解りません。
 恩を仇で返すことしか出来ず、申し訳ありません。

 これから先は僕の事などは忘れてください。

 これまで、ご迷惑ばかりお掛けしてきまして、申し訳ありませんでした。

 そして、こんな僕に数々のお心遣いや配慮等、ありがとうございました。

 さようなら。』

 もう20年くらい前のことであり、それを今の感覚で書き起こしているものなので、当時のこの手紙はもっと酷い文章だっただろうと思う。


 僕は大学一年生の頃から、K先生から絵を教わりたい気持ちをずっと持っていた。

 そうであっても、当時の僕は、K先生(女子)からは誤解を基にしたお叱り以外に言葉をかけられたこともなかった。

 だから、お互いのことを誤解もしていたと思う。

 そういう思い込みかもしれないけれど…性格的なもので、僕とK先生(女子)では合わないだろうとも考えてきた。
 それでも僕は、絵を通してなら、いつかはどこかで解り合えると信じてきた。

 こういう考え方を持ったのは、竹内栖鳳について書かれた本の終わりにある。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

 

 竹内栖鳳横山大観の関係を、世間一般では対立し仲の悪いものと考えられていたそうだ。

 僕が、その理由らしきものではないかと察しているのは。

 帝展という公募展の改組が行われた時、横山大観は、応募作品に対する審査や評価の基準を設けることを提案していた。

 それに対する竹内栖鳳は、

『あなたのやろうとしていることは、7色の虹を1色に塗り潰そうとする行為だ』

 と強く批判する。

 そこから、竹内栖鳳横山大観との世間的な対立の図式は作られていく。

 竹内栖鳳横山大観は、僅かな期間ではあるけれど、京都芸大で同じ教員として教鞭をとったことはある。

 でも、交流を持ったような記録を、僕は見たことはない。

 描こうとする絵への嗜好に関しても、両画家には違いがある。

 僕も勉強不足なので、理由は他にあるのかもしれないけれど…

 それから、竹内栖鳳が亡くなって通夜の時、新聞等の訃報よりも先に、横山大観竹内栖鳳の処へ駆けつけて、皆を驚かせている。

 この話を本の締め括りとして、画家としての竹内栖鳳横山大観の関係は、一般に見られていたものとは少し違っていたのではないか、と書かれて終わっている。

 

 この関係と同じと迄は言わないけれど、僕は大学の教員や同級生達と、絵に対する考え方の違いによる言い争いや喧嘩をすることはあっても、絵を通してわかり合えることだってある、と信じ続けてきた。

 だから、大学の絵の指導等で厳しい言葉をかけられたり、考え方の違いで口論になったりして、表面的な関係が第三者に悪く見えることは、別に構わなかった。

 でも、大学での日本画教員や同級生達にとっては、その表面的な関係こそが大事であり、内容面でわかりあう気なんか最初からなかった。

 絵を教える側がしっかりとしたことを学んでこなかったことで、間違ったことを教えたり、僕という生徒が気に入らないからと嘘を教え、自身の間違いに気づいても意地になって、間違いや嘘を押し通すことばかりをしていた。

 課題・絵のことで、僕から教員達に質問を持ちかけても、話をはぐらかされるだけだから、僕は本を読むことで多くを知ろうとしてきた。

 それでもその教員達は、本を読む行為を止めるように言ってくるもので、僕は教員達に逆らって本を読むことで、日本画のことを知っていく。

 言いまわしの上では、これ等の話は、もう過去の話である。

 過去のそんな嫌なことを忘れるべきだとわかっていても、日本画の教員達に嘘をつかれたり、怒鳴り合いをしながら、そこに逆らいながら知ってきた事ばかりで、そこから都合よく教員達とのやり取りだけを取り除いて忘れることなんかは出来ない。

 4年間の大学生活のなかで、K先生(女子)から数回ほど、普通の生徒のように接して貰えたことだけを以て、感謝の気持ちだけを、思い出に残すことも出来ない。

 僕にとっては、絵は一生の問題であり、大学で絵を頑張ることにあたっては、一大決心をして挑んでいた。

 そうして大学生活のなかで頑張ろうとしてきた分だけ、その頑張りはトラウマとして重荷になり、大学卒業後は、いつまでもそこに囚われて苦しめられている。

 こんな僕であるから、K先生(女子)が僕と関わっている限り、この燻っている火種は、いつかはK先生(女子)に燃え移らせるだろう。

 そうして、日本画の教員間でトラブルとして燃え上がり、K先生(女子)の立場や面目も潰してしまうだろう。

 そういう要素を強く持つ僕が、いつまでもK先生(女子)に関わり続けて、迷惑をかけていてはいけない。

 

 出来る筈のないことだけど、全てを忘れて、一からやり直す考えを持ちたい。

 大学でのトラブルだけではなく、日本画の教員達からかけられた言葉の数々と同時に、その教員達の存在や、大学で労力を使って学んできたことなんかも、何だったら一緒に忘れたっていい。

 頭のなかでは、その大学でのやり取りに連動して、幼い頃から絵を描いてきたことや、浪人時代に基礎を頑張ってきた経験や、お世話になりながら~既に亡くなった平田先生や木路先生等のことを馬鹿にされて、散々に笑われてきた経緯なんかも繋がっている。

 僕の人生の大半を、この美術大学の教員や同級生達からは、延々と否定され続けてきたのだ。

 全てを忘れたいと思っても、忘れてはいけないこと、忘れたくないこともあって、結局は矛盾したまとまりのない考えをグルグルやっているだけだ。

 この考えを風化させる過程にも、K先生(女子)の存在は障害になっている様に思える。

 

 僕がK先生(女子)の近くをウロウロしていれば、K先生(女子)を慕う生徒・教え子達の障害となる。

 絵の描けない僕が、これからK先生(女子)から何かを教わったとしても、何かが変わることもない。

 でも、K先生(女子)を慕う多くの生徒・教え子達の未来を考えると、僕の存在は邪魔であり、僕一人のために何十人や何百人という人達の学ぶ機会や人生まで、滅茶苦茶にする訳にはいかない。

 

 絵への執着心から、僕はK先生(女子)の存在を何かの象徴の様に思っているなかも知れない。

 そもそま、K先生(女子)は僕のことなんか何も知らないではないか。

 僕がどれくらいの腕を持って大学へ入学してきて、どんな絵に興味を持って、大学でどんな絵を描こうとしていたのか、どんな課題・絵を提出していたのか、そんなことさえ、非常勤で働いていた立場上、K先生(女子)は殆ど知らない。

 いや、僕のことなんか殆ど知らないことが、逆によかったのかも知れない。

 

 どの方向から考えても、やはり僕は、K先生(女子)と関わりを断つことこそ、必然で適切だと考える。

 大学を卒業してから何年も経過しているこの時になって、ようやくこのことに気付けた。

 僕はいつまでも迷い、時間を経過させた分だけ、K先生(女子)にリスクを背負わせ、嫌な思いをさせてきたのだろう。

 だから、今頃になってしまったけれど、もう僕からは解放させてあげよう。

 そんな考えのなか、書いた手紙だった。

 

 K先生(女子)にお別れの手紙を書いて、実家からも離れていった。

 この後は、自分でもよく解らない何処かの土地へ行こうと思っていた。

 絵のことも暫く忘れて、ただ生きることだけを考えよう。

 そうして、事故や天災などでよく解らない内に何処かで死んでしまっても、それはそれで、誰かの為には良いことなのかもしれない。

 僕がK先生(女子)から離れることで、笑顔が生まれたり、絵について充実した勉強が出来る人もいたりもする。

 その対象は僕が嫌う人達であっても、僕の不幸を望んで笑ってきた人達であっても、絵については恵まれた環境に居れることを祈っていよう。

 実際の処、素直にそうは思えないけれど、いつかはそう思えるようになろう。

 この問題は、そういうことなのだと信じて祈っていた。