絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

K先生との手紙とその背景4 No.116

実家を離れて

 北海道を離れて最終的に行き着いた先は岡山県だった。

 暫くのんびりしたい気持ちもあったが、何をするにもお金の問題が絡む為、岡山県にある自動車工場へ派遣会社を通して働くこととなった。

 行き先なんかも、どこでも良かった。

 絵のことも暫く忘れよう…最初はそう思っていたのだが、忘れることなんか出来ず、いつまでもズルズルというかダラダラというか、そんな感じでやはり絵は描こうとしながら、かたちになるものはないまま、時間ばかり進む。

 

K先生からの手紙

 仕事と住む場所が決まったことで、暫く前から実家に届いていたK先生(女子)からの手紙が岡山の住まいに送られてきた。

 この時の手紙に関しては、今も手元にあるけれど、ここで公開するのは止めておこうと思う。

 

 K先生(女子)は気を遣ってくれ、手紙には色々と書いてはくれていた。

 同級生の話では、家庭を持って子供を授かった人、個展を中心とした作家活動をしている人がいること。

 Toは事故でなくなっていること。

 価値のない相手に、自分の大切な時間とエネルギーを使わない方が良い、ということ。

 大学への恨みや憎しみなどを断ち切ることへの勧めや、K先生(女子)の絵に向かう姿勢。

 僕が望むのであれば、協力できることは協力するということ。

 それから最後には、K先生(女子)の意思は、大学の日本画教員達と同じものではないので、他の教員達との兼ね合いを気に掛けなくて良い、という意味合いの事も書いてくれている。

 このK先生(女子)からの手紙を読み、僕は何度も返事を書こうとはした。

 実際に紙とペンを持ったのだが、この時だけは数言の文章すら書けなかった。 

 この手紙を貰う以前であれば、文章自体は幾らかは書けてはいた。

 それでも、考えがまとまらなかったり、こんな内容をK先生(女子)に語ってどうなる、等と悩んだ末、手紙を書くことを諦めてきた。

 でも、このときばかりは、K先生(女子)に書こうと思う事柄自体が、何も頭に浮かばなかった。

 

 思うことといえば。

 手紙で同級生達の近況を知っても、僕はその同級生達とは、まともに会話さえしたことのない人物ばかりだった。

 会話した人物であっても、もめ事ばかり。

 画学生時代の僕としては、生徒間でもどこかで誤解が溶けて、何気なく会話する場面が出来て、絵について語り合ったり影響しあったり、そういう未来を夢見て頑張りはした。

 でも、大学では時間が経過するほど、そういう事柄からは遠ざかるばかりだった。

 教員達の決めつけで『君は大学に入学してくるだけの力を持たずに、大学へ入学してしまった』と語られ、そういう前提で指導を受けるというのは、人間関係の破綻には効果覿面だった。

 現実に、大学へ入学して一週間程度の頃に、僕はK先生(女子)の発した『光が当たった結果現れるものは、一切描かないでください』という言葉に対して、研究室へ行って質問を持ちかけた。

 そのことで、そういう扱いを受けていく。

 この頃といえば、生徒達も新しい環境に慣れていなくて、すぐ近くの座席にいる同級生とも、会話できていない生徒もいた。

 そんな頃から『高木は紛れで入試を通ってきた奴だ』という認識をみんなで持ち、言葉を交わしたことさえない内から『高木とだけは関わりたくない』とか『高木だけは絶対に、俺達の仲間には入れない』と宣言する者達も現れていた。

 そんな状況のなかで、僕は何十回とK先生(女子)との会話を求めて研究室へ行くのだが、一度も会話なんか出来なかった。

 授業内でのK先生(女子)は『課題の進行はどうしてもゆっくりとなってしまうので、課題とは別に、絵を描いてきたらなら見ます』と語り、僕はトータルで10枚くらいの水彩画を描き、K先生(女子)に見て貰いたい、とも求めた。

 その時も、S先生とA先生(女子)が僕の対応をするばかりで、課題以外で絵を描いて研究室に持ってくる行為や、K先生(女子)を名指しして質問をする行為に怒られ、最終的には『わからないことがあっても質問にくるな!』と怒鳴られていた。

 はじめてK先生(女子)とまともな会話をしたのは、それから二年以上も経過して、幾つかの偶然が重なった時だった。

 普通の生徒の様に扱って貰えたことで、話の通じる人だと、僕は考えを改めた。

 一年生のあの頃、S先生とA先生(女子)の都合や考えから、僕とK先生(女子)との接触を断たれたことで、僕も誤解していたのだ、と納得しようとしてきたけれど。

 そこは誤解ではなく、S先生とA先生(女子)が語っていた様に、K先生(女子)は僕を毛嫌いしていて、僕との接触を徹底して拒んでいた…という話が、実はK先生(女子)の意思によるもので、本当のことなのではないか?と疑う考えも、僕のなかにはある。

 ただ、『そういう考え方をしてはいけない』とか『K先生(女子)をよい先生と見よう』と、僕は自分に言い聞かせているだけで、そこに何かの確証がある訳でもない。

 

 K先生(女子)は大学の都合で、一年間は教職を離れていた。

 そのことで状況を客観視出来ていて、他の教員と意思を合わせては自分の立場が危ういと、そういう考えに至っただけではないか?

 一年間、教職を離れずに客観視出来ていなかったなら、他の教員達と同様に、僕へ悪意をぶつけて嘘を教える存在だったのではないか?

 K先生(女子)も、そういう悪い人だと割りきれたなら、僕は大学との訴訟に踏み込めたかもしれない。

 みんな悪い人達ばかりだったと考えた方が、色んな考えの割りきりが出来て、僕の心だけではなく、その後の人生も優位なものになっただろう。

『我慢して貰わないと、俺達はくびをくくらなくてはならなくなる』

 等と語り、僕に我慢を求めてきた洋画のM先生や彫刻のK先生には、学生生活部長の立場からそれしか手段がないのなら、その通りにくびをくくって貰うべきだった。

『お前の人生なんか、どうなろうと俺達の知ったことじゃない!』

 などと、怒鳴り続けてきた日本画の教員達に対してもそうだ。

 彼等が僕にしてきたことを、大学への訴訟という形で最後まで争い、世間にも話を広め、教員や同級生諸とも、追い詰めて惨めな思いをさせるべきだった。

 それで彼等の人生がどうなろうと、当人の家族までもがくびをくくろうと、大学の評判や運営がどうなろうと、俺の知ったことではないと言い返すべきだった。

 でも、僕は世間知らずのお人好しで馬鹿でもあるから、そんな考え方を持てなかった。

 僕は彼等へ、そこまでのリスクを負わせて争う覚悟なんかも持てず、彼等が本来負うべきリスクを自分で負おうとする。

 そして、自分でリスクを負いながら後悔し続けている。

 彼等が何気なく笑い合っている姿を見て、数えきれないほど、妬ましく恨めしい気持ちになってきた。

 K先生(女子)が教え子達の為を思って動く姿や、人生を前進させ充実した生活を送っていることも、理屈では喜んでやりたいと考えても、腹立たしい気持ちの方が先に来てしまう。

 事故でなくなったToの存在についても、彼を知る人達はみんな悲しんでいることだろう。

 それでも僕には、彼を接したことのある存在として、悲しい等と感傷的になる気持ちさえ持てないでいる。

 読んだことのない漫画や小説で、登場人物として名前は聞いたことがある程度の人物が、亡くなったと聞かされたくらいにしか、心が動かない。

 

 そう思ったり感じたりすることで、僕はK先生(女子)との関係の距離を感じ、自分はK先生(女子)の教え子ですらないのだな、とも感じていた。

 手紙を読むことで、美術大学を卒業してからも、同級生達はK先生(女子)を慕い、多くのことを学んでいる状況にあることを、僕はここではじめて知った。

 そんなK先生(女子)の処へ、色んな火種を持つ僕が、今更ながらに近づいてはいけないと感じる。

 画学生時代、僕が平田先生のことを考えて頑張っていた時に、その頑張りの邪魔をされたくなかった気持ちと同じく。

 今の僕がK先生(女子)のまわりをウロウロすることで、K先生(女子)の指導や、教えを乞う人達の邪魔をしてはいけないのだと思う。

 今の僕が出来ることやすべきことは、K先生(女子)から離れることなのだろう。

 

 僕の為に長い文章を書いてくれたK先生(女子)だけは、信じてもよいのかもしれない。

 そして、このK先生(女子)の手紙の内容も、妙に僕の関心ごとに繋がっている気がする。

(多くの話を省いているので、ここでは伝えられていないけれど)

 やはり、僕の学びたかったこと以上のことを、K先生(女子)は持ち合わせている様な気はする。

 でも今更、どうにか出来ることではない。

 

 僕はK先生(女子)の存在をどう捕らえるか、美術大学を卒業してからも暫く悩んできた。

 もしかすると、教員間の意見の対立に僕の存在を利用するため、今は優しい言葉をかけて飼い慣らそうとしているのではないか?という考え方も一部にはあった。

 結局の処、K先生(女子)の件に関しては何の確証もなくて、僕がこう感じてこう考えた、という範囲でしか認識できないのだと思う。

 そうであっても、お別れをする最後の頃に『K先生(女子)の存在だけは、信頼のおける人なのかもしれない』と思えただけでも良かったのかもしれない。

 これで、K先生(女子)のことは僕のなかで終わりにしようと考えた。

 K先生が書いて貰えた手紙も、それなりに労力をかけていることもわかるので、何度かは返事を書こうともしたけれど、何も書けず、ただ黙ることしか出来なかった。

 K先生(女子)は、最後に僕へ機会を与えてくれたけれど、僕はそれを蹴った。

 K先生(女子)に対して、僕は最後まで礼儀知らずで不義理に振る舞った頭のおかしい生徒だった、ということでよいのだと思う。

 

 それから少しして(先の手紙から数ヵ月ほど経過して)、もう一度K先生(女子)から手紙が届く。

 K先生(女子)が、大学の日本画研究室(その人員)に失望して、大学の教員を辞めたこと。

 技術的なことで質問などあったら、質問ください、ということ。

 そんな内容で、K先生(女子)からの手紙は最後となる。

 ここからも、僕は何度か手紙を書こうと考えるけれど、返す為の言葉は何一つ思い付かなかった。

 何もせずに黙って去ることこそが、K先生(女子)やその教え子達の為にも一番適切なのだとも考え、K先生(女子)とのやり取りは、ここで終わりとなる。

 

#画学生時代の話の終わり

 カテゴリー付けをしてきた『#画学生時代の話』も、今回で終わりとなります。

 元々はアメーバブログの時に書いた話で、そこに色々と文章の手直しをしたり、書いていない話を追加しながら、このはてなブログへ移行させてきました。

 上手く書けていない事柄や省いた話なども多く、当時のことを書こうとすれば、まだ色々と書いてはいけるのですが、これで区切りとします。

 

 この後、大学を卒業してからの話を書いていく予定でいます。

 その当時に描いた絵の画像は貼付するつもりではいますが、絵の話はあまりないと思います。

 これ迄の話やこれからの話も含めて、このブログで書き綴っている内容は、あまり良いものではありません。

 それでも、たまに読んでくれている人も居る様で、それは有難い限りです。

 そして、今このブログを読んでくれている人のなかで、何かしら僕に近い境遇を持った人がいたならば、僕の件を参考に、より良い選択や判断をしていけることを願っています。

 それから、僕のような後悔ばかりで、そこから抜け出せない人生に向かわないことを祈っております。