絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

大学への呼び出し2 No.89

フレスコ画の準備

 K先生(女子)から電話をもらい、指定された日時に研究室へいく。
 そこにはK先生(女子)がいて、上級生(4年生)の数人も待機していた。

  K先生(女子)の書き控えたフレスコ画についてのノートを貸してもらえ、ノートを読んだ上で制作を頑張るように言われた。

 

 それから、上級生はフレスコ画制作の漆喰を塗る直前までの作業を、僕に見せながら作っていく。

 漆喰を塗ってしまうと、フレスコ画の完成を急がなくてはならなくなる(数時間以内というタイムリミットが発生する)。
 まだ乾燥していない漆喰に絵具を塗り、漆喰(壁面)の乾燥に合わせて染み込ませて色を定着させるのがフレスコ画の描き方なのだ。

 この後は描く絵の下絵を作り、漆喰を塗り、それから描く作業が始まる。

 

葛藤

この時点で、当時の僕はこれ等の作業や意味合いを殆んど理解や把握もしていない。

 絵画の材料化学の本で、大雑把な話だけは読んで理屈的には知ってはいたけれど、実際に自分がやるという前提で考えると、殆ど何もわからない。

 何もわからないまま、K先生(女子)や上級生達が段取りを組んでくれ、フレスコ画の制作についての事柄が進んでいく。

 

 その様子を見ていると同時に、僕は『何か罠があるのではないか』と疑う。

 K先生(女子)の事も、今ここで信じて良いのだろうか。

 未提出課題に対して、K先生(女子)は善意で色々と行って対処してくれている…であろうことは解る。

 でも、例えば同級生のS(男子生徒)の様に、何かを同級生達に教えようと動いたり、善意的な接し方で仲良くしようと接触してくる行為には、いつも裏が見えていた。

 そこには教員達の都合による促しであったり、便利な存在となって教員達との信頼を得る為の意図があったり。

 S(男子生徒)の関与していない処で僕と誰かが仲良くなると、S(男子生徒)の立場を揺るがしてしまう状態が起こる可能性や危機感あって~同級生の誰かが僕と親しくなりそうだったら、まずはS(男子生徒)が僕に話しかけて様子を見なければ気が済まない、という状況があったり。

 そういう類いの何かが、K先生(女子)の行為の裏にありそうに思えて、もしそうであってもこの時点では、それが何なのか予想出来ない。

 本当に善意であったり、K先生(女子)の持つ信念といったものによる行為だろうか。

 日本画の正規教員は全員で、僕には敵対心を持って困らせようと動いている状態にある。

 この非常勤講師のK先生(女子)だけが、僕には善意で接してきているとは、素直に受け取ったり考えたりは出来なかった。

 教員間でも騙し合いがあって、陥れの材料として、僕の存在を利用しようとしているのだろうか?

 一時期のS先生は、僕に同級生達への暴力を勧めて、そのことで退学に追い込もうと企てる場面もあって、そういう企ての前段階で優しく接し、騙す前に油断させようとしているのだろうか?

 今は恩を売るかたちで優しそうな言葉をかけていても、それは何処かで悪意にひっくり返したり、何かの都合ですぐに手の平を返すのではないか?

 兎に角、僕は色々と勘ぐりながら、K先生(女子)の言動のひとつひとつに疑いの目を持って見ていた。

 フレスコ画のことを学ぶ過程であるから、もし騙されているとわかっても、その後に信用するか・しないか、くらいの違いにしかならない。

 人間関係の破綻している僕の信用なんか、教員達にとっては、小さくどうでも良い話にしか過ぎないのだが。

 

 またここでも、K先生(女子)を信じて、これ迄と同じく騙されていく自分が見てとれる。

 そう思いながらも、僕は騙される道を判断していた。

 勿論、それなりの警戒をしながらではあるけれど。

 この悩みの過程で、何度もレイモンド・チャンドラーの言葉が頭に過っていた。

『男は、強くなければ生きていけない。
しかし、優しくなければ価値はない。』

 あれは浪人時代、予備校帰りによく寄ったラーメン屋さんで読み進めていた『上がってなンボ!! 太一よ泣くな』という漫画で知った言葉。

 ↓下の画像は、レイモンド・チャンドラーの話の場面ではないけれど、僕がこの美術大学にいた時の気持ちは、こんな感じで被って感じるものは多かった。

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新・上ってなンボ!!太一よ泣くな / 小池 一夫・叶精作 | 残滓

 その漫画の主人公が、悩みのなかで噛み締めていた言葉のひとつだった。

 その優しさなんかで、この僕はどれだけ理不尽な思いをしてきただろうか。
 今もこの状況下では、

「その優しさに漬け込まれようとしているのではないか」

「僕の持っているのは優しさではなく甘さなんだ」

「こういう処が、俺の弱点なんだよ」

そんなことを何度も思い返しながらも、自身のモラルを大事にしようとしていた。

 

フレスコ画の本

 K先生(女子)の様子を見ることとした。

 それからK先生(女子)から、フレスコ画のことを書き綴ったノートを借りた。

 授業で洋画の先生が、フレスコ画の解説をしていたものを書き残したものである。

 その授業を出ていない僕が、そのノートを見ただけで、フレスコ画のことをわかったつもりになるのは違うかもしれない。

 この美術大学で、僕は平田先生の自慢の教え子として、恥ずかしくない勉強をしようと一大決心をして入学してきたのだ。

 教員達のおかしな発言に対して、質問や反論をしてきた過程で、相手にされず何も教われなくなる覚悟もしてきた。

 その覚悟と同時に、そうなった時には、自分が教員達に泣きついて教えて貰うよりも、知るべきことを自分で徹底的に調べて、そこを弱みにしないと決めていた。

 だから、フレスコ画の事は自分なりにしっかりと調べよう。
 K先生(女子)の行為は、善意であろうと受けるが、フレスコ画のことを書いたK先生のノートは宛にしない(極力見ない)方向で頑張ろう。

 そう決心して、僕はフレスコ画の事を自分で知ろうと本を探し始めた。
 大きい本屋さんを何件か周り、住んでいる地域の図書館や、学校の図書館でも、フレスコ画について書かれた本を探す。

 その日の内に5~6冊ぐらい、フレスコ画を制作するための本を選んで入手した。
 それを全部読むつもりだったのだが、一冊目の本から難しくてよく理解出来ない。
 わからなくても、取り敢えず本の文章と写真は全部目を通すことにした。

 本を入手したまま徹夜で2冊に目を通して、他の授業のこともそれなりにやる。
 朝がきて、大学が開く早すぎるくらいの時間に大学へ行き、午前中の授業が始まるまで寝る(寝坊を避ける為)。
 授業の合間などに寝て、急ぎの課題なども片付け、アルバイトもこなし、二日目の夜も寝ずに本を読む。

 3冊も読んでいると、ようやく重複している内容がよくわかってきた。
 そうして3冊の本を読み終えた後も、寝ないでフレスコ画の下絵を描いていく。
 下絵が終われば、フレスコ画の本制作である。

 本を一通り読んだお陰で、自分の持っている日本画用の絵具でも、フレスコ画に流用出来るものが多くあることを知る。

 それでも、僕の持っている画材以外でどうしても必要な物はあって、それは自分で買いにいった。

 フレスコ画を制作する場合、絵を描く際に点などの目印を漆喰につけていく。
 人物を描くなら、頭はこの辺りで、体はどこだとか。
 何もない大きな面(壁)に、突然絵具を乗せていくわけではない。

 しかし、この頃の僕は没骨法を練習していた。
 下書きなどなくても、僕は描いていけた(その為の準備はあるのだが)。 

 

 考えの違う教員達に対して、意見や反論を口にするというのは、時としてこれくらいの覚悟や労力が必要なのだと思っている。

 ただ、こういう頑張り方が出来るのは、学生のうちだけだとも思う。