絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

K先生との手紙とその背景2 No.114

北山と木路先生の話

 北海道に戻ったばかりの頃、浪人時代に予備校で仲良くしてくれた北山と札幌で会っている。


 北山は、1年間の浪人生活を送った翌年、沖縄芸大へ入学し、同大学の大学院も卒業した。

それから、実家のある北海道の札幌に戻っている。

 北山との会話の最初に、木路先生が亡くなった事を教わる。

 元々身体が弱く、長く生きられない人だったそうだ。

 木路先生とは、浪人時代に予備校でお世話になった先生であり、その予備校や札幌のある専門学校等の創設に関わっている人であり、画家であり、批評家でもあった。

 浪人時代、幾つかの有名な美術大学の先生から絵を見て貰えたことには、木路先生の尽力もあってのことだ。

 僕にとっては、高校時代に絵を見てくれていた平田先生の武蔵野美術大学時代の先輩、という繋がりもあった。

 だから、美術大学に入学した後であったり、卒業した以降に、何度も挨拶に行くべきだろうとは考えていた。
 美術大学へ入学する直前には、

「北海道に帰ってきたら顔を見せなさい」

 とも言ってくれていた。

 しかし、僕は自分の置かれている状況が恥ずかしくて、木路先生に顔を合わせることが出来なかった。

 いつか自分の問題を乗り越えられたら…そう思っている内に、平田先生も木路先生も亡くなっていたのだった。


 それから北山との会話のなかで、今の仕事や絵の事や、これからの話などをしていくのだが。
 僕はどうしても、後ろ向きな発言を繰り返してしまう。

『僕はこれから先のどこかで、絵を描く事を辞めるだろう』

 そんな様な発言を何度か繰り返していて、北山から何度か注意されていた。

 自分でも、あまり良い発言をしていない自覚はあった。

 僕のその発言の真意のなかには、美術大学の教員たちからの脅しの影響を、この頃も持っている。

 北山と僕とが絵描きとしての仲間という括りになっていては、彼にも何等かの形で迷惑をかけるかもしれない。
 だから、僕の存在には期待を持たないで欲しいし、僕とは距離を持たせ、あまり一緒に活動させるべきではないだろう。

 僕はこのまま絵を描けないでいるなら、もう絵のことは忘れた方が良いのかもしれない。
 そのほうが、これからの人生はずっと良いものになるだろう。

 そんな風に、僕は考えようとしていた。

 これ迄の人生を思い返すと、これからは絵を描かない自分の人生など想像できない。

 それでも、この頃の僕はそう思おうとしていた。

 こんな話をしてしまう僕の事を、北山は嫌になっただろう。

 この後から、僕は北山と連絡をとることも、ずっと出来なくなってしまった。


 北山との関係がこうなってしまっても、僕は絵を描けるようになりさえすれば、こんなことはどうにでもすぐに解決できるだろう…そう信じていた。
 でも、それがいつになるのかは解らない。

 それでも、そのいつかの為に足掻き続けるぐらいしか、いまの僕には出来ない。


 北山には『絵を辞める』等と言っていても、僕の心のなかでは、絵の事ばかり思い続けていた。

 

美樹とのこと

 この時期、美樹という女性と仲良くなる。

 美樹は札幌で看護婦をしていた。

 僕のいる旭川とは距離があって、新幹線の移動だけでも1時間半もの時間は掛かる。

その距離のせいで、たまにしか会うことは出来ず、いつもメールをしていた。

 たまに、変な内容というか僕の大雑把な性格のせいで、美樹を怒らせてもいた。

 例えば、お互いの仕事の都合で、メールできなさそうな日がわかると、美樹は『寂しいね』等と言ってくる。

 僕は深く考えず、悪気もなく『そう?』とか『寂しいとか思ってないけど?』といった返事をして怒られていた。
(そういう会話をしていても、実際には電話やメールの出来ない日など無かったもので)

 そういう出来事も、後になると楽しい思い出として語り合える話題だった。


 こんな風に楽しく過ぎていく時間に、僕はいつまでも違和感を感じていた。

 自分が本来いるべき処にはいなくて、本来やらなければならないことが、何も出来ていないからだ。

 北海道に帰ってきた当初の考えとしては、実家で暫くはのんびり生活して、大学へ入学前から我慢していた友人達と遊ぶ時間を作ろうとした。

 そういうつもりがあっても、僕が本来やるべきこと(絵を描くこと)を行えてないのに、こういう楽しい時間を過ごして良いものだろうか、という不安ばかり沸いてくる。

 そういう時、美樹から突然に別れようとメールが来る。


 初めて別れを切り出された時は、何も理由を伝えてくれなかった。

 美樹側が僕の事を嫌いになってしまったのなら仕方がないが、嫌いになった訳ではないという。
 そんなよく解らない話で、僕は別れることは出来ないと説得した。

 この時は、僕の気持ちを試していたのだろうか?女の子の気持ちや考え方は難しいな。

 そんな風に考えて終わった。

 二回目の別れ話の時も、似通った感じで始まった。

 この別れ話の時に、美樹は一度離婚している事や子供がいること等を打ち明けられる。

 それでも僕は別れようとは思わない事を伝え、別れなかった。

 それから三度目の別れ話の時に、別れた旦那との復縁話がある事を伝えられた。

 美樹は、元旦那と復縁(再婚)するか、僕との付き合いを続けるか、どちらかでずっと迷ってきたという。

 そして、美樹は僕との付き合いで気持ちは段々と高まっていき、『もうここで別れなければ後戻りできない』と考えて、僕に何度か別れ話を切り出していた。

 美樹の話を聞いて、僕なりにも考えていた。

美樹の子供のことや、これから先の生活の事を考えると、美樹は僕よりも元の旦那を選ぶべきだろう。

そうして、お互いに気持ちを残しながら、美樹とは別れることとなった。

 

 こんな別れる別れないというやり取りをしていた頃、当時の居酒屋での仕事では、大きなトラブルが起こる。

 仕事といっても、僕はアルバイトという立場であったが、アルバイトであるが故に、会社から追い出される流れへ向かう、という話だ。

 

 その日は、会社のエリア長がお店にやって来て、何やら店内備品等の整理をしていた。
 それから、そのエリア長は突然ホールの従業員(アルバイト)たちへ怒り怒鳴り始める。

 僕は厨房内で働く立場であった為に、その時にホールで怒っているエリア長の事の経緯は解らなかった。

 その翌日に北海道内の全ての自社店舗へ、エリア長はその日に怒っていた内容をFAXで送りつける。

 そのFAXは、以下の様な内容だった。

『◯月◯日。
 私は旭川店へ行き、汗を流しながらその店舗内の整理をしていた時のこと。
 旭川店の従業員達は私の事など見向きもせず、ずっとお喋りばかりして、誰一人として声は掛けず、整理を手伝おうともしてこなかった。
 旭川店の雑用を、旭川店の従業員でもないエリア長の私が、汗を流しながらやっているのにも関わらずである。
 だから今後は旭川店の従業員のことは、考えを改めない限り人間とはみなさないことにする。
 毎日必死に一生懸命働いている私を馬鹿にするな!』

 それから従業員(アルバイト)全員、翌日までに反省文を書いてくる様に指示を受けた。

 その日から、別の店舗の社員や幹部等の人達が頻繁にやってきて、言いがかりの様な内容で攻撃してくる。
(会社的には従業員教育らしい)

 それから勤務時間は制限され、時給もこの店舗だけ例外的に下げられ、日に何度も暴言を浴びせられる。

 その暴言も、ホールでやるとお客へ聞かれるので、厨房へきて、粗を探したり言いがかりの様なかたちで怒る。


 問題とされているあの営業日。

 エリア長は荷物運びをしていて、まだ怒っていなかった時。
 僕は出勤した時にそのエリア長を見掛け、「その荷物僕が運びますよ」と声を掛けていた。
 それに対するエリア長は、『君は厨房の人間だから手伝わなくていい』と返してきている。

 それでも、その店舗外の社員達が店舗にやってきて、暴言を浴びせてくる対象は、厨房内で作業している従業員が対象の中心となった。

 ホール従業員に叱っていては、お客さん達に不快な思いをさせるという配慮ではあるけれど、問題とは少し違う従業員ばかり捕まえて、暴言や圧力をかけていく。


 問題の営業日より半月前では、僕はその店舗の社員の人達から、
「君は頑張ってくれているから、来月からの時給は10円上げておいたよ」
と言われていた。
 社員になることも誘われていた。

 そういう言葉をかけられる過程でも、なかなか会えない美樹と遊びに出かける予定を立て、シフト面でも一月以上前からその件で調整をお願いしていながら、その予定をかなりの割合で潰されていた。

 それでも、店舗や会社の為と考え、私生活や予定を崩されても、急なシフトの短縮や延長があったり、サービス残業があっても、文句は全く言わずにいた。

 それなのに問題のこの一件があってからは、時給を100円以上も下げられ、勤務時間も少なく制限されて、意図的に給与は下げられていき生活は苦しくなる。

 そうやって、アルバイト達を追い詰めて辞めさせようと仕向けていった。

 会社の幹部達は、この件をより歪めたかたち社長へ報告し、この店舗の店長の面目を潰して、幹部達の評価にも繋げていった。

 その流れから、僕はその居酒屋でのアルバイトを辞めることにした。

 因みに、この時の居酒屋店も、後々に知ったブラック企業大賞(ブラック企業大賞)で賞を受賞していて、そういう会社を僕はたまたま続けて渡り歩いていたのだった。 

 

 この頃の僕は、美樹と一緒に暮らそうか考え迷っていた時期でもある。

 この時の仕事(アルバイト)がこうなっているのに、養うとか結婚とかを多少でも考えていた自分が情けなく思えた。

 昭和から平成の前半辺りまでの社会の流では、アルバイトなんか、社員の気紛れや悪意に簡単に振り回される立場である。

 雇用期間が長くなってなあなあの関係になりつつあるから、という理由だけで解雇されるなんてことは、アルバイト・非正規雇用の解雇理由でよくあることだった。

 そんな不安定な立場で誰か(美樹の子供たち)を養おうとか、絵を描くことに見切りをつけられないとか、そういう自身の甘さを痛感していた。

 美樹が元旦那と頼を戻す過程には、僕が美樹と結婚するという選択肢もあったのかもしれないが、こんな僕ではだらしなさ過ぎた。

 大学在学中にしっかりと就職活動をして、何等かの仕事に打ち込んでいたなら、色んな可能性も拡がり、積み重なるものもあっただろう。

 僕は本来やりたかった仕事は、今やっているアルバイトではなく画家だ。

 僕自身に力(画力)があり、幾つもの作品をしっかりと描きあげていける存在であれば、美樹ともこんな結末にはならなかったかもしれない。

 いや、力なんか無かったとしても、絵に打ち込めてさえいれば良かったのかもしれない。

 絵が描けないという前提に考えるならば、さっさと絵なんか諦めるべきだと思う。

 それをしないから、いつまでも僕は悩み続け、頭のなかでも悪意の言葉がこだまし続けるのだ。

 

 画学生時代、僕は民俗学関係の本を幾つか読んでいた。

 それは、絵の肥やしや日本画の精神論の助けになるのではないか、という意図だった。

 どの本だったかは思い出せないのだけれど、その類いの本のなかで、現代の結婚率や出生率の低下について書かれていた。

 統計の話で、日本人の男性が結婚しない理由一番にあげているのは、お金(経済力)がないからとなっている。

 結局は僕の件も含めて、そういう処へ行き着くのだと思う。

 

 そうして僕は、美樹の存在から離れ、実家のある北海道からも離れ、絵からも離れなくては、と考える。

 その頃になって、K先生(女子)からの手紙が、引き払った京都の住まいから実家にいる僕の処へ転送されてくる。