平田先生3 No.93
物思い
北海道から愛知県の住まいに帰ってきて、1~2月くらいボーとしていたのだと思う。
食べるものも飲むものも、全く口にせず、物思いにふけていた。
平田先生が亡くなってしまった。
本来ならば平田先生が亡くなる前までに、僕はそれなりの力をつけて、何かしらの実績をあげていくつもりでいた。
平田先生は不器用ながらも絵に打ち込んできた人だけど、それらしい実績はあげてこれなかった人だった。
その教え子として可愛がられていた僕が、幾つかの実績をあげていくことで、平田先生の他界前に、人生のなかで、充実していた部分もあったと思って貰いたかった。
僕が本来、そのような状況に持っていくべきだった時期といえば、大学でのトラブルばかりで酷いものだった。
実績らしきものといえば。
1年生の数個目の課題で、S先生から「1度、お前が思うような絵を描いて見せてみろ」と怒鳴られた場面があり。
その時に描いた課題が、翌年の学校案内書に使われていたことくらいだ。
入試時の課題が翌年の入試参考作品に使われていたことも、実績として考えるか考えないかで迷うところだけど。
そんなことではなく、僕は学外で評価される状況を作って、それを平田先生へ報告したかった。
僕は、そんなしょうもない欲を持っていたから、その辺りの話を平田先生に伝えることもなかった。
この時期といえば、大学は希望者を対象に、○展という有名処の公募展の出品協力をしている。
だから、一部の同級生達は公募展の出品関係で頑張っている。
それに対する僕といえば、公募展への出品希望は一年生の頃から語っていたのに、教員達はそこへ僕を参加させないように動いている。
「芸術なんかに関わって生きていけないようにしてやる」
とまで言われている程で。
課題の出題内容で嘘をつかれたり、大学側で生徒に割り当てられる課題制作スペースさえ、生徒のなかでは僕だけが与えられなくなっている。
この頃の僕は、他の大学の試験を受けなおそうとしていた。
平田先生や母のシの可能性に怯えながら、平田先生のもとから離れて何も前進していないのだ。
努力だけはしてきたつもりだ。
同じことをもう一度しようとしても、まずできないだろうと思えることを、繰返しやってきたつもりだった。
でも、それらは全て悪い方へと流れてしまった。
これからのこととしては。
大学を辞めて、母や家族とも縁を切って、誰も知らない土地で生きていこう。
それで、よく判らないことに巻き込まれて、よく判らないままシんでしまうのが、一番良い結末なのだろう。
僕が大学をきちんと辞める手続きをして姿を消せば、母も僕の学費や仕送りに苦労する必要もない。
最初は寂しく思うだろうが、僕の世話をしない生活にも時期に馴れるだろう。
そうすることが、馬鹿な僕が母の為に出来るせめてものことなのかも知れない。
芸術なんかは無くても、人は生きていける。
でも、芸術というものは人の良心の様なものであり、人の心を豊かにする物のひとつだ。
僕はこの大学へ入学するまで、ずっとそう信じてきた。
いつかじっくり勉強しようと考えている岡倉天心も、そのようなことを語っている場面もって、自分の考え方は間違っていないとも感じていた。
美術大学での努力次第で、きっと僕の未来は切り開いていけ、まわりの人間も喜んでもらえる。
そんな考えを、僕はこれまで疑わずに突き進んできた。
でも、今の自分のことを考えたらどうだろうか。
母には苦労をかけ、シにたいとまで言わせている。
平田先生にも、シ期が迫っている時までも気を使わせていた。
高校生の頃に、平田先生から何度か怒られた思い出もある。
その怒られる時の内容はいつも同じで、
「俺なんかに気を使うな!」
「お前は力(柔道をやっていたので、腕力的なものや画力的なものも含め)があるのに、何でいつも弱そうにするんだ!」
と、そんな様なものばかりだった。
そんな平田先生が、最後は僕の大学生活が大変そうだと気を使い、自分のシ期が迫っていることを伝えてくれなかった。
浪人時代に同じ予備校へ通っていた彫刻科の友人がいた。
その友人を通して知り合った友人も、この美術大学には何人もいた。
僕が日本画の人間同士で揉めて孤立している状況が絡み、その彫刻の生徒(友人)は日本画の生徒との交流を持とうとしなくなっている。
例年だと、日本画の生徒と彫刻の生徒は仲の良い関係を持っているらしい。
しかし、僕の学年だけは、おかしな関係が出来ていて、その原因は明らかに僕なのだ。
僕がこの美術大学でやらうとしていたことは、しっかりした絵の基礎勉強を学び、それを踏まえた上で自分らしい絵を探ろうとしていた。
だから、まずは基礎や古典の勉強をする、という意識があった。
美大や芸大の生徒たちというものは、僕と同じ様に絵が好きで、少しでも良い絵を描こうと絵に打ち込んでいる人ばかりだと思っていた。
だから、美術大学では絵が好きな者同士、絵について語り合ったり、競い合ったりして、お互いを高め合えるものだと思っていた。
絵が好きな者同士だから、考え方や意見の衝突もあるだろう。喧嘩もするだろう。
それでも、絵が好きな者同士だからこそ、そういうことを通して判り合えることもある筈だと信じてきた。
でも、そういう僕の考え方自体が甘く、自分の首を絞めている。
実際に、K先生(男子)とA先生(女子)からは、僕がこの大学に居ることで、多くの生徒が迷惑を被り不幸になっていると指摘されている。
真面目に一生懸命に絵を学んでいる人達の為にも、僕という存在はこの大学に居て貰っては困るとのとで、「もうこの学校には来るな」「早く大学を辞めろ」と怒鳴られている。
K先生(女子)もフレスコ画の課題の時に、電話先でこう言っていた。
「貴方へ何かを教えたことが他の先生達に知られると、私の立場が悪くなってしまう」
など。
どうしてこうなってしまうのか、自分でもよくわからない。
でも、僕は画学生として絵に打ち込み、モラルを持って正しいと思うことを行うことで、逆に多くの誰かを不幸にしていく。
僕は悪意なんかを持っていない為に、余計にたちの悪い存在なのだ。
この他というか、主に考えることというのは。
これから縁を切ろうと考える母との想い出と、美術大学で誰よりも絵に打ち込もうと考える契機となった平田先生との想い出ばかりだった。
きっかけ
物思いにふけるばかりで、無駄に時間ばかり過ごしていた頃。
ふと、美術史などの講師をしている若林先生(非常勤講師で本業は美術館の学芸員)の授業のことを思いだす。
美術史などの講義の授業なども、僕は積極性を持って学ぼうとしていた。
その関係から、若林先生は、時々僕のことを気に掛けてくれたり、授業とは直接関係ないことでも、色々と教えてくれる存在だった。
そんな若林先生のことを、僕は慕っていたし、若林先生が企画した展覧会や美術雑誌に寄稿した記事などを見たり読んだりもしていた。
ひと月くらいは、何もせずに物思いにふけってしまったが、この時期も、僕は若林先生の講義を受講しているのだった。
人の心理として、敵意を持った人ばかりの環境に居ても、一人でも自分を応援して貰える人がいれば、その人の為にという意識を以て頑張れてしまう。
若林先生は、僕がそういう考えている数少ない人達の一人だった。
このまま、若林先生の授業まで適当にしてはいけない。
この大学で非正規の教員であっても、僕の存在を受け入れてくれている教員が、何人かいたことを思い出す。
最低限、そういう先生達の授業くらいは、適当にしてはいけないと考え、気持ちの切り替えが出来た。
家のなかで、ただボーッとして物思いに更けるばかりの日々は、ここでようやく終える。
この時期、殆どの食べ物や飲み物も口にしていなかったこともあり、数ヵ月後に何気なく体重を計った時、20キロ以上の体重が落ちていて、これには自分でも驚いていた。