絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

平田先生2 No.92

北海道のラーメン

 平田先生の自宅に行くと、先生の奥さんがでてきた。

 浪人時代に一度だけ会ったことのある先生の奥さんは、以前会った時よりも明らかに痩せていた。

 僕が平田先生に会いたいことを伝えると、
「もしかして、年賀状をくれた方ですか?」
と聞かれた。
「そうです」
 そう伝えると、奥さんは先生ではなく義父さんを呼んでくる。

 それから改まって、平田先生が昨年に亡くなっていたことを伝えてくれた。

 その話を聞いていて、平田先生が亡くなっていたことには驚いた。
 でも、先生の死を知っても涙が出る訳でもなく、悲しみで溢れる訳でもなく、自分が普通でいることの方が驚きだった。

 そこからはあまり会話もせず、先生の為に買ったお土産を仏壇にお供えして貰えるようにお願いして、その場を後にした。


 この後は、高校時代に柔道部の仲間で時々食べに行っていた思い出のあるラーメン屋さんへ、一人で向かった。

 道中、少し考える。

 僕があんなにも想っていた人だったのに、死を知ってもこんなものかと、自分の薄情さには驚く程、自分の心は普通だった。

 あんなに可愛がってくれて、お世話にもなっていた先生が亡くなって、涙ひとつ出てこないなんて…。

 目的のラーメン屋さんに到着して、高校生の時の様にラーメンを頼んで食べ始める。

 3~4年振りだけど、懐かしく美味しい味だった。
 柔道部の仲間たちと、この味を美味しいと言いながら食べていた頃のことを、色々と思い出す。

 柔道部と美術部を掛け持ちしていて、高文連という高校生の絵のコンクールに絵を出品したとき、平田先生は僕の不出来な絵を見ながら喜んでくれていた。
 他校の先生たちに僕の絵を見せながら、
「こいつ良い絵を描くだろ?実は柔道部の生徒なんだぜ」
「こいつに絵を教えたのは俺なんだ」
 そんな自慢を、他校の先生たちしてくれていた。

 あの当時の僕は、そんな言葉に少し腹を立てていた。
 俺が絵を教えたと言うほど、何かを教わって来たとは思って居なかったからだ。

 コンクールで僕の絵を評価するに当たって、先生たちの間では何度も意見が分かれたらしい。
 そんな状況も、平田先生は面白がっていた。
 そして、高文連から帰る頃にも、平田先生は僕にこんなことも言ってくれた覚えがある。

「お前の絵を良く見ないのは、みんな教育大系(教育大学で絵を学んだ先生たちに)の人ばかりでな、逆にお前の絵を良い絵だって言っているのはみんな美大や芸大系(美大や芸大で絵を学んだ先生たち)の人ばかりなんだ。
 教育大系の奴等は絵のことをよくわかっていないんだ。
 だから、お前はまわりからどう見られていても、自分が良いと思う絵を描けば良いんだぞ。」

 そんなこと等を思い出し、
「懐かしいな」
「あの頃は良かった」
「これから平田先生に会いに行こう」
 そんな想いがめぐるのだが、そう思った直後に、平田先生は亡くなったのだと思い出す。

 それから、自分でもよくわからないまま涙が出てきた。

 僕は、悲しくない訳ではなくて、まだ平田先生が亡くなった事実を受け入れていないのだと知った。

 そして、こんな所で泣いていてはいけないと思い、涙を拭い隠しながら、急いで会計を済ませて店を出たのを覚えている。

 

混乱

 平田先生の死を知ってから、僕の行動は暫くの間おかしなものになっていた。

 北海道の実家から愛知県の住まいに帰る途中でも、こんな場所にいる筈のない平田先生を探してしまう。

 空港や愛知県内の町中などの人混みのなか。
常識では、北海道を離れてしまえば平田先生がいる筈はない。
 それなのに、少し背格好が似ている程度の人を平田先生と見間違えて追い掛けて、話し掛けてしまったり。

 愛知県の自宅に戻ってからは、大学の授業は全く出なくなり、自宅では物思いに更けてボーッとし、そして時々泣いていた。

 正確な期間などは覚えていないが、ふた月ぐらいの間はそんなことを繰り返し、食べ物や飲み物も殆ど口にしていなかった。

 

 ボーッとする様になってから少しして、母からの電話があった。

 その母の電話の要件は、よくは覚えていない。

 多分、課題の未提出に関して、大学から母へ連絡がいっていて、そのことについてだと思う。

 その時の母との電話は、これ迄のなかで一番酷い喧嘩となった。

 

 これ迄に、母と喧嘩となる時には、大体決まった内容のお叱りを、母から受けていた。

「先生達の言うことをきちんと聞きなさい」

「他の生徒に迷惑をかけるようなことは止めなさい」

「まじめに授業に取り組みなさい」

 こんな感じの内容が主で、この時も叱られていた内容は同じだった。

 この時ばかりは、こういう言葉をかけられた直後から、苛立ちを抑えることが出来ず。

 僕は電話先の母へ、色々と怒鳴っていた。

 

【 僕は高校を卒業して、浪人生活1年と大学生活の2年半、合計で3年半。

 いつも絵に集中しようと努力してきた。

 いつも、遊びたい気持ちを抑え、大学の教員達の指示に従い、誰よりも多くの時間を大学の課題・絵に費やしてきた。

 自分の本来描きたい絵を描かずに、大学への提出や会話用に、描きたくもない方向性の絵を多く描いてきた。

 それでも、大学の教員達の指導には多くの矛盾があり、正しい判断を選べば、教員達の機嫌を損ねる場面が多々ある。

 本来学ばなければならないことや正しいことを犠牲にして、教員達の機嫌取りを上手くやらなければならない雰囲気もわかる。

 それでも僕は、高い授業料を工面してくれている母のことや、シ期の迫っていた平田先生のことや、自分の将来の為に、機嫌取りよりきちんとしたこと学ぶ選択をした。

 そのことで、最初は教員達の矛盾や力不足による授業での指導が、明らかな嘘の指示や命令に変わっていった。

 教員達の気紛れや嫌がらせによって、制作中の課題のやり直しや方向転換の強要される等あって、寝る時間まで削って課題制作をしていても、提出期限に間に合わない状況へと追い込まれてきた。

 それだけのことをやってきても、大学の教員達からは『不真面目だ』『言うことを聞かない』『暴力的な性格だ』等と言われ、大学(日本画の教室)の出入りを禁じられたりもしている。

 僕としては、母には心配や迷惑をかけないようにと、殆どの事は黙って解決しようと努力もしてきた。

 だから、母は殆どのことを何も知らない筈なのに、なぜか何かを知っているかの様に、

『悪いことばかりして、生徒としてまじめに学ぼうとしていない』

『教員や他の生徒に迷惑ばかりかけて、情けなくて(母は)生きていけない』

 等と叱りつけてばかりいる。

 僕は何度も、勝手にそんなふうき決めつけるなと反論してきたし、それを母は信じてくれないから、喧嘩ばかりになっている。

 いつも、何を根拠にそんなことをいっているのかと、僕は問い詰める。

 そうして母は、大学の教員から直接電話で聞いていたと語る。

 小学生から高校卒業まで、僕がそんなことで学校や母を困らせた場面等はなかったではないか。

 そんなにも、自分の息子のことが信じられないものか。

 自分の息子の言葉よりも、会ったこともない、大学のお偉い教授や助教授達のことを、なぜそんなにも信用してしまうのか。

 この一連の件で、母は何度もシを口にするようになり、情けなくて生きていけないともいっている。

 僕が母をシに追いやることなんか出来ないのをわかっていて、そんなことを言っているのだろう。

 どこかで勝手に野垂れシんでやるから、大学に授業料も振り込まなくて良い。

 僕のことも、もう放っておけ。】

 

 実際に使っていた言葉はもっと少なく乱暴であったし、 僕は自分のことを俺とも言っていた。

 そういう細かな違いはあるけれど、大体こんな内容で、僕は母へ怒鳴り付けていた。

 怒鳴りつけ、最後は携帯電話を力任せに床へ叩きつけて壊してしまう。

 母としては、初耳の話もあったり、僕が怒鳴り乱暴な言い方をしている状況もあったから。

 僕はこう語っていても、殆どの内容は受け取れなかったと思う。

 それでも後々の話を聞く限りは、母の認識している状況とは違ったことが、大学の僕のまわりでは起こっている、という理解はしたらしい。

 ここで僕は、携帯電話を叩き壊していたので、それから暫くは、母から僕へ電話をかけてくることは出来なくなった。