盗難とその後3 No.52
母との喧嘩 (後半)
大学でのことで、僕と母が喧嘩を始め、割りと早い時期。
母は大学へ電話で連絡を取って、ある日本画の教員から事情や状況を聞いていた。
盗難と進級出来ないであろうことを、僕は母に話し、そのことを切っ掛けに何度も繰り返しているのだから、少し考えれば、そういう流れになることも予想は出来そうなものである。
でも当時の僕は、色んな意味合いから余裕がなく、そんなことを考えることもなかった。
そんなことがあったことさえ、一年半くらいの期間が経過してから知ったくらいだ。
母側も、大学の日本画教員から話を聞いたことを僕に話してしまえば、また新たな喧嘩の材料になると考え、その内容を小出しにすることはあっても、大学の教員と会話をしたことまで伝えてくることはなかった。
母が日本画の教員から話を聞いたことを口にしたのは、3年生の年度の終わり辺りで、僕はそこでようやくその事実を知る。
そのことも、母との喧嘩の過程で出てきた話で、母は「その先生は、何という名前の先生だったかは覚えていない」と言っていた。
でも、その話の内容を聞いた限りでは、母に話をしたのはS先生にしか思えず、僕の知らないところでも、様々な誤魔化しや陥れは進んでいたのだった。
母が日本画教員の誰かから聞いた話について。
僕という生徒は、大学ではとても不真面目で、教員達の指導に対しては反発ばかりして、話に耳を傾けることさえしない。
他の生徒に対しても、いつも授業の妨害ばかりして迷惑ばかりをかけている。
大学の教員達は、誠意を以て僕に接しているのだが、暴力的な性格からどうしても手に終えず、厳しい言葉を使って注意するのがせいぜいだという。
大学の教員や他の生徒に落ち度は見当たらず、僕の思い込みの激しさから、皆が迷惑を被り、いつも怯えて理不尽な思いをしている。
こんな話を聞いた母は、僕に対して聞いた内容を小出しに叱ってくる。
『大学では、他の生徒の迷惑になることばかりしているのでしょ。他人の迷惑を少しは考えなさい!』
『大学の先生の話を良く聞いて、きちんとそれに従いなさい。』
『あんたは思い込みが激しいんだよ。大学の先生達は、あんたよりもずっと経験があるんだから。考え方に違いがあるなら、あんたの方が間違ってるに決まっているでしょ!』
そんな風に、殆ど何も事情や状況を知らない筈の母が、時折、大学でのことを知っているかの様な口調で叱りつけてくる。
母の言葉に、S先生やA先生(女子)が僕を批判や否定する時と共通する内容が含まれていて、母との会話のなかでS先生やA先生(女子)のイメージや存在や悪意がいつもチラついてくる。
僕は毎回、母と電話で会話をする時、最初は怒らないように心掛けているのだが、どうしても堪えられずに怒り、いつの間にか怒鳴っている。
『お前に何が解ってるっていうんだ!』
『そんなに自分の息子が疑わしいか?一緒に生活していた時、そんなに俺は酷い奴だったか?』
『会ったことも会話したこともない大学の教員達のことを、お前は何でそんなに信用出来るんだよ!何で俺のことを信用しないんだよ!』
『そんなに自分の息子が信用できないのか!』
電話と平行して、母は達磨の絵はがきを数ヵ月おきに送り付けてくる。
その絵はがきには、いつも似通った内容の話がかかれている。
『一生懸命にやってしまうと、自我が強くなってしまう、まわりが見えなくなってしまう。』
母は僕の為を想って、そんなことを書いた絵はがきを送ってきていることも解る。
そうと解っていても、僕はその絵はがきが届いたのを見て、腹立たしい気持ちが沸き起こってくる。
その苛立ちも、母へ向けてはいけないとは解っているけれど、僕は理屈で考えるようには動けなかった。
母との電話で、何度も喧嘩を繰り返しているうちに、母は僕へ『しにたい』『一緒にしのう』と口にしていく様になった。
大学の授業料の工面は大変で、母は毎日が必死だった。
僕は幼い頃から、ずっと絵が好きで描いてきた。
その僕が、大学で勉強して卒業することは、僕の人生に必ず大きなプラスにはなると信じ、苦しいことを口にもせず、頑張っているのだ。
その対象の僕が、この大学は自分のプラスになることはないから辞める、と言い続けている。
今はそう言っていても、卒業する頃には考えも変わっている筈だと信じ、母は僕へ諭しながら大学へ連絡をとり話を聞いてしまう。
母へ話をした教員の話では、大学での僕は、教員達の話に全く耳を傾けず、学ぶべきことなども学ばず、身勝手な振る舞いばかりしていることになっている。
そういうことを母へ語った大学の教員のことを、母も立派な人格を持った人だと考え、その言葉の数々を信じてしまっていた。
一応、『身勝手な振る舞いばかりしている』と言われている僕としては、絵に集中して頑張ろうとしているだけだった。
たぶん、大学で僕より強い意思を持って頑張ろうと動いていた生徒なんか、いなかったのではないかと思う。
僕がそういう強い意思を持つ切っ掛けなんかも、実はあった。
大学へ入学する前、高校時代に美術部等でお世話になった平田先生は、もう病気で長生きできないと知る。
その平田先生と親しく接し学んできた僕は、平田先生の自慢の教え子として紹介されたことも何度かあった。
そこから僕が考えていたことは、平田先生が生きているうちに、先生の自慢の教え子として実績を作って見せてあげることだった。
いい絵を描いて見せてあげられることもそうだし、難易度の高い公募展等に入選するでもよいし、実績なんかは何でもよかった。
そうすることが、何よりの恩返しになると信じていた。
その為に、僕は絵に対して出来る努力は何でもしていくつもりでいた。
勿論、僕の為を思って頑張っている母に応えようと、大学で頑張ろうという考えもあった。
その頑張りの障害になるならば、教員や同級生達とも親しくなれなくても仕方はないと考えてきた。
わざわざ敵対する気はないけれど、機嫌取りしたり、絵を描く時間を削ってまで交遊の為に遊ぼうとは考えなかった。
そうある為に、僕は色んなことを我慢し、努力に励んではいた。
頑張るとは簡単にいえるけれど、時間をおいて、今と同じことは出来ないだろうと思える程までのことをしていた。
しかし、大学では、教員や同級生達から努力することへの妨害を受けていく。
それは、僕のそれまでの常識からいって、考えられないことばかりだった。
僕という学生が、自分の専攻している分野の勉強に必死になっているのに対して、大学の教員が、嘘を教え、暴言をはきかけ、努力や頑張りへの妨害をしてしまう。
恐らく、僕をそうやって困らせることで、自主的に退学する方向へ持っていこうとしていたのだが、僕はなかなか退学をしない。
そんな行為を毎日続けているから、常識やモラルといったものも麻痺し、エスカレートする。
それを見た一部の同級生達も、それに便乗して動き、それを教員達は容認する。
そんな状況だから、僕は彼等と極力関わるのを避けていき、その行為が彼等の悪意を増長させる。
この状況に違和感を覚える生徒も多くは居たが、その状況を見ては黙り、自分等の都合の良い解釈をしながら、それが当たり前になっていく。
傍観者にとっては、僕が生徒間で排除されているのは、僕側に問題があり自業自得であると考えることで、彼等(傍観者)は何も悪くない(責められる要素はない)と考えようとする。
そういうかたちで、集団心理は働いていた。