学生生活部長1 No.98
2度目の受験後
2度目の芸大受験を終えて、この時に在籍している美術大学は続けることにした。
そういう結論に行き着くのに迷ったし、決めた後からも随分な後悔はしたけれど、具体的なことを考えて判断すると、こうなるのも必然だったのかもしれない。
有名大学へ入学する権利は貰えたけれど、この時にいる美術大学はあと1年で卒業となる。
母との会話から、経済的な問題から4年以上の大学生活というのは、送らせてはやれないと言う。
それならば、僕は学生をやりながら働いて、授業料や生活費を稼いでやる。
同時に、それ迄に通っていた美術大学を訴え、裁判を起こす考えも(決断はだせていなかったが)あった。
それを、具体性を持ってやろうと考えると、単位を取得するだけでも必死になり、絵を学ぶ処の話ではなくなる。
亡くなった平田先生からも、「辞めないで続けた方がいい」と言われていたこともある。
結論は、このまま美術大学を続け、最後の一年でのやり取りで、教員達と何かしらで解り合える可能性にかけようという考えに至った。
仮に、大変だと知りつつも、他校への入学を果たせたなら、僕はこの美術大学を相手に裁判を起こしていた可能性は高かった。
裁判に対して躊躇しているのは、数少なくだけど、善意や応援の気持ちを持って接してくれた人も、あの美術大学の教員(主に講義関係)のなかには居たからだ。
僕が裁判を起こすことで、善意で接してくれた人達の面目や立場を潰し、困らせてしまうことに迷い悩んでいた。
でも、そこ迄のことをしない限り、あの美術大学の日本画の教員達は、前向きな話し合いなどをしてくれず、自分等の都合を押し通すことしかしない。
裁判の勝手は何も解らないけれど、当時の僕は、勢いでそれをやるべきだと自分に言い聞かせていた。
それでも、そこに踏み出すことは出来なかった。
洋画のM先生
話は少し前に遡る。
芸大の再受験の少し前(センター試験位の頃)、母から電話が来ていた。
その内容というのも、前回に母とした電話での喧嘩が関係している。
その喧嘩の最後、僕は携帯電話を床に叩きつけて壊した為、新しい機種を購入する迄は、母から僕に連絡をとることは出来なかった。
その喧嘩の後に母は大学事務へ連絡し、大学内で起こっていることを調べて報告しなさい、という主張をしていた。
大学事務は母へ、僕に大学事務に来て話をする様にと伝えていたが、僕は再受験が終わるまで音信不通となっていた。
僕は母から『大学事務で話をしなさい』と伝えられても、少し遠回りな行動をとる。
元々は再受験が終わった後に、1年位前に促しのあった『学生生活部長』という役職にある洋画のM先生と話をし、その後に大学事務へ文句を言いに行く考えを持っていた。
ただ、母と大学事務とのやり取りが進み出し、母を説得したり、年度末の課題提出やテストや再受験へのスケジュールを作る兼ね合いから、M先生との会話を早めることにした。
僕は、学生生活部長というものがどういうものを、細かくは解っていない。
ただ説明を聞く限りでは、生徒が大学生活で困ったり困りそうなことに、その教員が代表して対処する立場にある存在だそうだ。
M先生は、僕が2年生の頃の学生生活部長であり、この頃の僕は3年生ではある。
それでも、当時は大学事務からの指示で、僕とM先生と会話をする様に指示を受けていた。
その会話をする為に、M先生は日本画の僕の状況を知ろうと動いたり、何かしら『こうしよう』等と考えたかも知れない。
だから、いきなりこの年度の学生生活部長と話をするよりも、現状についての話は早いのかもしれない。
そうではなかったとしても、これから話をするであろう大学事務の人や、この年度(実際には翌年)の学生生活部長とは、別の視点や情報を引き出せるかもしれないと考えた。
そうして、まずは自分で洋画の校舎へ行き、M先生を探すのだが、会うことはできずにいた。
それから知り合いの洋画の生徒に聞いた話では、M先生は数ヵ月に一度、大学に顔を出すか出さないか位、学校内には居ない先生だと知る。
後になって考えれば、そんな先生が学生生活部長となって、困っている生徒の面倒をみるというのもおかしいのだが、当時の僕にはそこ迄の頭はまわらない。
その後、母が一年前に控えたM先生の自宅の電話番号を教わり、僕はM先生と連絡をとる。
そこでM先生は、大学ではなくM先生のアトリエでなら話を聞くといってきた。
それから日時を指定され、M先生のアトリエの場所や電車の乗り継ぎの説明も受けた。
M先生のことでも、何かと疑問に思いながらも「僕の考えすぎで、こういうことはこういうものなのかな?」などと思おうとする。
そういう疑問関係は、後になってみないと把握できないことが多い。
若さからの、経験不足や知識の乏しさというのもあるだろう。