平田先生1 No.91
北海道の実家へ
大学へ入学してから、はじめて実家へ帰ることとなった。
時期としては、年末年始の連休でのこと。
通っていた美術大学は愛知県で、そこから北海道への移動には、それなりのお金もかかる。
それまでの母は、正月などに帰るように言ってきてはいた。
なかなか帰らない僕としては、移動の為の飛行機代をケチっていた部分もあるけれど。
実はそれ以上に、年末年始や長期の休みであっても、教員達との課題のトラブル件で、実家に帰ってゆっくりする余裕を作ることは出来なかった。
もし余裕があっても、絵に関する何かしらで動いて、実家にはなかなか帰らなかったかも知れないけれど。
自分の学んでいる絵や大学の課題に対して、適当に考えて割りきっていれば、こうはならず、楽しい学生生活は送れただろう。
色んな問題で噛み合わないまま、それでも僕は必死に頑張ろうとしていたから、時間や労力はかかり、人間関係のトラブルを起こし、色んな犠牲をはらいながら、それでも良い絵なんか描けず、空回りばかり続いていた。
こういう処まで、大学の課題問題でのトラブルは、大きく影響していた。
3年生になって実家へ帰る流れとなったのは、それらの状況に割り切れたからという訳ではない。
僕の通っていた大学では、希望者は美術の教職員免許を取得出来る制度があった。
教職員免許に必要な単位を取得し、教育実習を行い、その単位関係を得た上で大学を卒業すれば、その教職員免許を取得できる。
僕としては、大学で学べる絵に関することは何でも学んでやる、という意志や意欲が入学当初からあった。
高校時代の美術部顧問の平田先生も、「とれる資格や免許は、とった方がいい」と言ってくれていた。
その経緯から、北海道の実家へ帰り、母校の高校へ教育実習をお願いする書類を直接提出しに行く事情によるものだ。
空港に到着して、中学時代から付き合いのある友人が迎えに来てくれた。
思い起こせば、この親しい友人たちと殆ど遊べなくなったのは、高校生になってからだ。
高校生活では、柔道部と美術部とを両立させる為に遊ぶ時間は殆どなかった。
そして、高校を卒業したら、すぐに札幌で浪人生活を始めた。
彼等とは、たまに電話はしていたけれど、ずっと会いたい気持ちを我慢していた。
この北海道の地には、この友人たち以外にも心残りの人たちが沢山居る。
小・中学生の頃に、ずっと仲良しだった人物がいたけれど。
僕が高校へ進学した後からは、部活動関係で連絡をとる機会を失い、そのまま連絡先がわからなくなってしまった。
高校の頃に、絵の繋がり関係で好きになった女性がいた。
洋画ではなく日本画を専攻しようと考える切っ掛けとなった人だった。
彼女とは、もう連絡はとらないと約束をしたのだが、未だに忘れられないでいる。
柔道で色々と迷惑掛けたり世話になった、ある同級生とも、大学へ入学してからは疎遠となってしまった。
高校2年のクラス替え以降から親しくなった同級生達とも、大学へ入ってからは疎遠となった。
他にも、書いていくと切りがない程に心残りの人が沢山居る。
大学に通いながら連絡をとったりしたい気持ちはあった。
でも、やはり大学でのトラブルによって、そういう余裕なんかは持てなくて、時間ばかりが経過して、疎遠になっていく。
こうやって、僕は心残りばかり残し、母にも散々の苦労をかけている。
平田先生のアトリエ
この当時は、大学の件で色々と悩んでいた。
困っていることに対して、自分なりの結論を出せないのではなく、自分が適切だと判断した結論や方向へ、色々な状況や事情から進めないのだ。
自分が一番適切だと思える方向は、今在籍している美術大学をまずは辞めること。
他校を受験するとか今在籍している大学を相手に裁判をやるとか、そういう事も考えてはいる。
でも、僕にとっては一番大事なことは、絵に対して努力して、力をつけていくことであり、他は幾らでも妥協して良いことだった。
死期の迫っている平田先生のことを想いながら、これ迄はずっと努力はしてきたけれど。
この時点で在籍している大学では、大学の教員や同級生達も、その障害にしかなっていない。
そんな話を、北海道の実家に帰ったときに、高校時代にお世話になった平田先生へ話そうと考えていた。
少し補足をすると、この時に取り組んでいる教職員免許や博物館学芸員の資格などは、大学を退学すると無駄になるかもしれない。
しかし、他校の大学を再受験し、入学することがあれば、この大学でこれまでに取得した授業の単位は他校でも通用する(二重に取得しなくてもよい)そうだ。
教職員免許や博物館学芸員の資格の為に取得した単位や、いま取得しようとしている単位も、他の大学へ入学したならば、無駄にはならない訳で。
その辺りの単位取得に関しては、きちんと計画的に取得していた。
単位や授業関係で、適当でデタラメになっているのは、日本画関係の実技の授業だけなのだ。
北海道の実家に帰ってきてから、僕は何度も、平田先生がアトリエとして借りているアパートの近くまでは来ていた。
でも、平田先生の病気のことを知りつつ、僕は面倒な話を振ろうとしていることに後ろめたく、躊躇してすぐには伺うことも出来なかった。
高校を卒業してから、平田先生のことを忘れる日などは一日としてなかった。
そういう気持ちが、余計に近付き辛い感じを作っていたのかもしれない。
何となく嫌な予感もしながら、日程の関係から観念して平田先生のアトリエへ行く。
その平田先生のアトリエは既に引き払われていて、別の人が入居していた。
それから、平田先生の自宅へと行く。
最初から自宅へいけば良いのだけど、僕のなかの躊躇が、そんな遠回りの行動になっていた。