2度目の美大・芸大受験1 No.94
美大受験
平田先生が亡くなっていたことを知ってから一ヶ月以上、物思いにふけるばかりで何もしていなかった。
それから我に返り、これからやらなければならないことを整理して考える。
日本画の未提出課題が幾つかあり、それについては一応は全部やる。
この時期になってしまったなら、やっつけ仕事や納得のいかないものになろうと、関係はない。
2年次の学年末から、3年次のこの時期も似通った状態になることは予想できていたから、気持ちの割りきりはできている。
前以ての予想していただけに、1・2年次よりはマシな状況にはあった。
講義関係で求められているレポート提出や試験等は、すぐに手をつけなければ対応できない。
困ったことに、受験しようとしていた美大(私立)系の大学は、もの思いにふけっている内に受験日を迎え、講義関係の課題との絡みで諦めるしかなかった。
芸大の受験準備
芸術大学の入試に関しては、きちんと都合をつけて受験することは出来た。
実際に受験したのは、東京芸術大学・愛知県立芸術大学・金沢美術工芸大学、この3校だ。
大学の3年生になってから、試験用の絵の練習など殆ど出来ず、試験までにやったことは数点の石膏デッサンを描いたのみだった。
着色写生の試験で使う水彩絵具なんかも、1年以上は触っていないままだったと思う。
この受験の一番の目的は、受かる事ではなく、有名大学の受験の難易度(どの程度の腕が必要なのか)を直接感じ、それに対しての自分の腕はどの程度かを把握することだった。
よく思うことだけれど。
絵を描いていると、自分の絵というものは、客観的に見れなくなるのかもしれない。
僕の腕でも、意外といい処までいくのではないか。
そんな風に思うことは時々あった。
それでも、いま再受験する所は、日本の芸大の代表的な大学なのだから、いま在籍している三流美大で、教員や同級生達から「まぐれで合格してしまった奴」等と散々に馬鹿にされている程度の僕が合格する筈はない。
その可能性などを図々しく考えてはいけないとも考え、『もっと事実や現実を客観的に見なければならない』等と、僕は自分に何度も言い聞かせていた。
同時に、そんな考え方をしている僕の様な人間は、ロクな成果も出せないだろうとも考えていた。
万が一の成果を出すのに、今の自分では必死さが無さ過ぎる。
そんな風にも、ずっと考えは巡り続けてきた。
それでも、芸大受験に挑んでいるこの時ばかりは、そんなことを考える余裕なんかも無かった。
そして、平田先生との最後の電話での会話(亡くなる前)で、「今の美術大学は辞めずに続けた方がよい」「大学の先生に何を言われても、我慢しろ」という言葉を掛けられていた言葉も頭を巡る。
その事で、亡くなった平田先生の言葉を汲み、他校の受験なんか辞めようかと、ギリギリまで迷ったりもしていた。
言い訳のような話ばかりになっているけれど。
実際に有名な芸大の試験を受けて一番感じたことは、僕自身の腕の鈍りである。
僕のデッサンや着色写生は、浪人時代よりも多少は丁寧になっている。
でもそれは、手先の慣れとか作業性がよくなっただけのことだ。
しっかりとものを見詰めたり、質感を描き表したり、そういう一番大切な処は浪人時代の方が出来ていた。
試験用に決められた時間内で、デッサンや着色写生を計画的に終わらせる感覚も、この数年間ではかなり薄れていた。