絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

平田先生との最後の会話 No.73

 ここでの話は、時系列でいうと少し時期は遡る。

 タイトル通りの平田先生と電話での会話をしていたのは、裸婦のデッサンか着色写生をしていた時期で、夏から秋にかけての時期だった様に思う。

 このブログではこれ迄に、裸婦の幾つかの課題の話を一連の流れで書いてきたけれど、裸婦の日本画制作の講評会は、11月か12月のどちらかだったと思う。

 

平田先生との電話

 この頃までには、高校時代にお世話になった美術部顧問の平田先生にも、何度か電話をしていた。

 でも、本当に話したいことは、殆ど話せていなかった。

 美術大学では平田先生の教え子として、恥ずかしくない勉強をするつもりだったこと。
 少しでも良い絵を描くことこそが、平田先生への恩返しになると信じていたこと。
 そういう考えを持って、高校を卒業してから二年以上の月日を頑張ってきたけれど、美術大学へ入学してからは何も上手くはいかなかったこと。

 それ等を、何度も言葉にしようとしたけれど、いつも言葉が詰まり、涙が出そうになり、病気の先生に余計な心配をかけてしまう気持ちも溢れ、殆ど言葉に出せなかった。

 それでも、いくつかの課題の提出を遅らせてしまい、もう3年生への進級は出来ないだろうと思っていた頃、この話を少しだけする。

 大学の教員たちとのやり取りも含めた人間関係が上手くいかず、それが課題の制作に直接響いていること。

 まわりには、自分が見上げるような腕を持つ生徒なんかいないのに、大学入学前まで学んできた洋画の常識が日本画では全く通用せず、まぐれで大学を受かった生徒として扱われていること。
 これ以上は、大学を退学する以上の適切な対応が思い付かず、もうこの大学は辞めることをずっと考えてきたこと。
 この事で、平田先生には恥をかかせているのかも知れず、申し訳なく思っていること。

 そんな内容の話をした。


その平田先生は、こう返してくれた。
「お前みたいないい奴でも、人間関係で困ったりするんだな。
 真面目で色んな人に好かれるタイプで、絵も一人で勝手に上手くなっていく存在だから(あくまでも、平田先生なりの僕への印象)、大学でも絶対に上手くやっていくと思っていたんだけどなぁ。
 俺も色々あるけど、お前はお前の事だけ頑張れ。
 大学は、出来ることなら頑張って卒業した方がいいと思う。
 でも、いつも遠慮ばかりしてるお前がそんなことを言ってくる位だから、よっぽどの事なんだろうな。」

 この電話でのやり取りが、平田先生と僕との最後の会話となる。

 

 この美術大学の受験を通過したくらいの時期から、平田先生が病気で、長く生きられないことは噂で聞いていた。

 だから、全く予想も出来ず、突然に亡くなってお別れしたわけではない。

 僕がその情報を知りつつ、事実を受け入れてこなかっただけなのだ。
 因みに、この会話のすぐ後に平田先生が亡くなった訳ではない。

 この会話の後には、一度意識を無くして昏睡状態になる。
 そこから数ヵ月後に意識を取り戻すが、再び意識を無くし、亡くなっていった。

 母が「シにたい」「一緒にシのう」と言っていた辺りで、僕の心にも余裕がなくなり、丁度そこから連絡を取らなくなっていた。

 そのことで、僕は平田先生の死期に気付けなかった。

 平田先生が病気で亡くなるかもしれない。
 でも、それは単なる噂話で、本当に亡くなったりはしないのかもしれない…
 ずっとそう考えて、平田先生の件は、どうしても楽観視しようとしていた。

 でも、母の件は少し考え方は違っていた。
 大学を退学したいという内容で、これ以上の喧嘩をすると、母は言葉道理に、本当に自サツしてしまうのかもしれない…
 そんな考えが頭から離れなかった。

 僕は頻繁に母が亡くなる夢も見て、目が覚めると、眠りながらも涙を流していたことにも気付く。

 そんな風に母を失わないためにも、確実に進級していかなければならない。

 

割りきった課題制作

 今は、僕が本当に学びたいものは諦め、教員たちからケチを付けられない、僕にとっては納得のいかない絵(課題)を描いていくべきなのかもしれない。

 やっつけ的に課題をこなし、それから自分の為の絵を描こうと、何度もやろうと考えるのだけど。

 いざ、課題に手をつけていくと、そういう風に割りきった描き方は、僕の理性がいつも許してはくれなかった。

 自分の存在は、融通がきかず、鈍臭く(要領よく立ち回れず)、なぜ変な拘りばかり持ってしまうのだろうか。

 まわりの教員や同級生達の様に、なぜ面倒なことを放棄したり、適当に誤魔化したり出来ないのだろうか。

 そんな自分を呪いながら、それ以降も、自分はそういう生き方しか出来ないのであった。