絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

デッサンの話3 No.28

疑心暗鬼

 僕は幼い頃から、一人でずっと絵を描いてきたけれど、大学入試を意識した頃から、きちんとした絵画の基礎を学んだ。

 そういう経験からも、僕は、自分の腕に多少の自信は持っていた。

 その上で、美術大学で絵を学ぶ訳なのだが、どうにも噛み合わない。

 幾ら話を聞いても、僕の程度が低いという指摘ばかりで、教員や同級生達の語る『絵画の基礎』というものが、基礎とは思えないでいる。

 彼等の語る『絵画の基礎』というものは、僕が一人で絵を描いた時に、素人考えでやっていた描き方に近く思えてしまう。

 僕はその素人考えでやってきたのを経て、『絵画の基礎』を学び、そこから何段も高い処に腕を上げてきたのだが、美術大学では、その部分を皆が否定してくる。

 単純に、洋画としての『絵画の基礎』と言ってしまえば、僕の学んできたことには根拠を持って自信を持てる。

 しかし、彼等は『日本画を学ぶ上での基礎』という微妙な言葉を使ってくるので、その微妙な処について、僕は質問を持ちかける。

 その僕の質問に対して、誰もが『お前には説明しても理解できない』という極論しか答えない。

 今にして思えば、教員も含めて『絵画の基礎』をしっかりとやってこなかったので、誰もその『絵画の基礎』について語れなかったのだ。

 例えば、デッサンの授業等で、僕がデッサンをやる上で、肘を曲げずに腕を伸ばして測る行為を『格好つけて変なことをしている』と皆で笑い『そういうのはやめた方がいい』『そんなことしている生徒なんか、他に誰もいないだろ』等と突っ込みを入れてくる場面等。

 彼等は僕に対して、高いレベルの話をしている様に語っていながら、実は低いレベルの話をしていたのだ。

 それを美術大学助教授という立場でやっているのだから、基礎をわかっていない同級生達もそういうものだと考え、僕もその状況に『日本画の世界ではこういう考え方をするのか?』と受け入れようとしながらも『何かがおかしい』と迷っていた。

 美術大学で起こった指導上でのトラブルというのは、僕の件に関しては、殆どがこういう性質を孕んだものだと、今の僕はそう思っている。

 

 こんな状況だったから、当時の僕は多くの疑問を持っていたが、その事で質問をする度に酷い言葉をかけられ、それが直接的に人間関係の悪化に繋がっていた。

 この当時から『絵について語ってくるこの教員達こそ、基礎を理解していない』という視点を持てていたならば、その後の僕の学生生活は全く違うものになっていた。

 しかし、そんなことも薄々と感じていながらも、当時の僕は、そう感じる考えに蓋をして、僕自身の力不足と考えようとしていた。


 美大で有名校に当たる武蔵野美術大学多摩美術大学では、日本画を専攻する生徒も洋画を専攻する生徒も、大学1年次は一緒に同じ授業を受けるという。

 それから2年次で、それぞれ日本画や洋画の専攻へと分かれていくのだから、仮に僕が武蔵美多摩美の様な美大や芸大に入学していれば、こんな矛盾に悩み苦しむことはなかっただろう。

 ここでは学校名を避けるけれど、北海道で行われたある美大の入試説明会で、ある有名美大の教授はこんな話をしていた。

 「予備校は絵の描き方を教えてしまうから、それを学んだ生徒は、大学で自由に絵を描けなくなってしまう。

 だから俺は、予備校のことを嫌っているし、そういう処の先生に受験の傾向なんかを教えるつもりはない。」

 その話を直接向けられたのは、僕の通っていた予備校の堀田先生で、受験をする自分の生徒の為に、受験の傾向を詳しく知ろうと質問していた時である。

 堀田先生は、こう怒鳴る。

「お前らが入試の難易度を上げていくから、予備校が生徒に絵を教えなきゃいけなくなってるんだろう。自由に絵を描いていいなら、外国の美大みたいに、受験の難易度下げたり、希望者全員入学させろ」と怒っていた。

 こういう考えの矛盾やいたらなさというのは、有名な大学の教員であっても起こすものだと思う。

 こういう事柄なんかも、当時の僕は知識として持っていたからこそ、僕の通っていた美術大学の教員達の発言には余計に迷っていたし、何処かで何かの誤解はあるだろうが、その誤解もすぐにとけるだろうと信じていた。

 

 

錯覚

 美術大学の教員達とのやり取りのなかで、いつも疑問や不信に思えていたことがある。

 簡潔に言ってしまえば『しっかりものを見つめなさい』という話なのだけど。

 この件についても、思っていることを書ききれる自信はないが、書き綴る努力くらいはしようと思う。

 

 細かく話していくと、

「人の目は惑わされるものであり、惑わされずにものを見つめようとする目を持ちなさい。」

 そんなことを、浪人時代には堀田先生や木路先生等から、特にデッサンの指導のなかで言われていた。

目が惑わされるという話で、解りやすい話をあげると、こんな錯視の図が割りとよく出てくると思う。

 同じ長さのものが、同じ長さに見えなくなったり、まっすぐなものが歪んで見えたり。

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錯視とは - コトバンク

 ここまで解りやすい錯覚ではなくても、絵のモチーフには錯覚を誘う場面がある。
 基礎としてのデッサンは、そういう錯覚等にも惑わされずに、しっかりとものを見れる目を持っているかが大事だと、僕は教わってきた。

 それはデッサンの話だけど、デッサンや絵だけの話でもないのだ。

 この場面での僕の話に置き換えたなら、学年で1番下手だと噂になっている僕が、時折は教員達の指示に反発することで、それなりの絵を描いている場面がある。

 噂や偏見の様なものがあっても、僕がしっかりとしたものを描いたときに~絵に取り組む者として、教員として、絵を学んできた者として、それをしっかりしたものと見れるか、評価できるか、ということでもある。

 そういう目を、S先生やA先生(女子)は持っていないように感じてしまう。

 K先生(女子)が僕の絵を見て酷評し「どうでもいいことしか考えていない」と言えば、その言葉を信用し過ぎ、以降はずっと、そう決めつけてしまっている。

 自分の目や経験で判断したり、自分の頭では考えたりはしていない…そんな風に見える。

 同級生達に関しても同じで、教員達が僕へ厳しい言葉をかけるのを見て、それが揺るぎない真実の様に考え、自分で考えないままの内容で批判や注意や危害を加えてくる。

 そういう処からの判断も、デッサンとか基礎は関係するものだと、僕は考えている。

 

余談

 こんな事を悩んでいた2年後、浪人時代を一緒に頑張っていた中嶋さんという女性と偶然会い、話をしたことがある。

 中嶋さんは難関校への受験を諦め、東北芸術工科大学へと入学していた。

 その大学の教員達は、教員達より中嶋さんの方がデッサンが上手いと認めていて。

 デッサンの授業では、生徒である中嶋さんが他の生徒にデッサンを教えるように教員達から言われ、中嶋さんがデッサンを教える場面もあると言っていた。

 僕が浪人時代に学んできたことは、程度が低い等と言われるような内容ではなかったと、それ迄思ってきたことに自信を持てた場面のひとつだった。