絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

大学で取得できる資格・免許3 No.107

教育実習

 教育実習では、人間関係とはまた別の問題も待っていた。

 僕自体、特に頭が良かったり要領が良いものではないので、これからの話が上手くいかなかったことへの言い訳と思えたなら、そういう可能性もあるのかもしれない。

 片寄った考え方であったとしても、そのことについて語る相手もずっといない状態なので、そこは僕の程度の低さとでも思って貰えばよいかと。

 ただここでは、あくまでも僕が思った話を書き綴っていく。

 

 教育実習のなかで具体的に悩み苦しんだ要因は、教育実習の教科担当教員との(絵に対する)考え方の食い違いだった。

 中学や高校の美術授業の指導内容というのは曖昧な要素が多く、その教師次第で指導の方向性や内容は大きく違ってくる様に、僕は感じている。

 同じ美術の教師であっても、考え方の違いは、『教育大系』と『美大・芸大系』とで別かれている様に思う。

『教育大系』と言っているのは、教育大学を卒業して美術の教師になった先生達のこと。
美大・芸大系』と言っているのは、美術大学芸術大学を卒業して美術の教師になった先生達のこと。

この『教育大系』と『美大・芸大系』という言葉は、僕が高校生の頃に平田先生から聞いた言葉からきている。

 当時の平田先生が、その言葉を一番よく出ていた場面は高文連(高校の美術部を対象にした絵画コンクール)での場面だ。
 平田先生の話では、僕の出品した絵は審査の場面でよく意見割れするそうだ。

 僕自身は、そんな意図を持って絵を描いている訳ではない。
ただ、その時々に描こうと思ったものを、思い付きのまま描いているに過ぎなかった。

 そんな僕でも、『抽象画』とか『具象画』だとか、そういう言葉や分類的な知識も持ってはいた。
 それでも、『抽象画』という得体の知れない絵を描こうと意識していた訳ではなく、自分なりに描きたい絵を描き進めた結果、完成した僕の絵は『抽象画』と括られる絵になっていて、審査員(高校の美術教師達)で意見割れをしていた。

 高校三年生の頃に描いた油絵は、画材で散らかったアトリエを描いていて。

 絵具もグチャグチャに塗り立てられているなかで、一部は物として描写している。

 絵画の基礎を習っていない僕の絵の感じから、面白いと見てくれる人と、基礎や技術のなっていない描きかたで、これの何がいいのかわからない、という言葉が評価のなかで分かれていた。

 そんな評価の事情を平田先生は教えてくれて、こう言ってくれていた。

「教育大系の奴等は絵の事を解っていない」
「お前(僕)の絵を良いと言っているのは、みんな美大・芸大系の人達なんだ。
逆に、お前の絵の何がいいのかわからないと言っているのは、みんな教育大系の奴等なんだ。」
「お前は教育大系の奴等の言うことなんか気にしなくていい。
お前はお前の描きたいものを描けばいい。」


高校生当時の僕は、僕の絵でこうした意見割れする意味合いを、あまり深くは考えなかった。
それでも、その意見割れの意味合いは、教育実習の場で改めて思い知る事となった。

 

 教育実習の担当教師の先生とは、やはり美術や絵についての考えは合わなかった。

 その教育実習の担当教師は、地元の教育大学で学んできた『教育大系』の先生であり、僕との食い違いも、『教育大系』と『美大・芸大系』の問題そのものに思える。

 絵画の基礎とか絵の描きかたというものは、やはり大事なもので否定をするつもりはない。

 でも、それを中学や高校の授業でやるには、設けている授業時間は少なすぎる。

 絵画の基礎というものも、それは描きかたの一つであり、『教育大系』の先生達は、そこへの意識や考え・採点の基準に重きが強いと思う。

 それでも、僕はその学校へ実習をお願いして学びに行っている立場なのだから、担当教師のやり方に合わせて学ぼうと努め、意見したり反発する様なことは一切しなかった。

 そういう食い違いも多く絡み、教育実習は全体的にも上手くはいかなかったけれど、何とか一通りの実習を終えることは出来た。


 それから教育実習を終えてた以降も、時折考えてしまう。
 美術教師の『教育大系』と『美大・芸大系』の違いは、どういうものなのか。
 どうしてそういった考え方の違いが体系的に出来てしまうのだろうか。これは飽くまで、僕なりに考えて出した結論でしかないのだが…
『教育大系』と『美大・芸大系』との違いは、大学入試や入学してからの授業等の在り方や過程で、そういう考えの違いが出来てしまうのだろう、と僕は考える。

 

 美大・芸大の絵画科の入試では、デッサンと専門科目(油画・水彩・彫刻等)の腕が試される。
 勿論、学科試験もあるのだが、求められる学力は一般大学よりは低いかもしれない。

 教育大学の入試であれば、デッサンと学科試験との総合点を重要視される。

 教育大と美大・芸大との入学入試の科目の違いは、大学へ入学してからの授業の違いにも関係してくる。


美大・芸大系』の大学で学ぶ美術の授業というのは、描写(モチーフを捉えて描くこと)や絵具等の扱いといった基礎は入試を通った時点で出来ていることを前提としている。
 だから、大学に入学した以降に写実から離れて抽象画へ向かう人もいる。

 描写を徹底する人や、古典的なものへの研究を深める人も居る。

美大・芸大系』大学は、入学する前まで基礎というものに厳しいが、入学した以降はそれほど厳しくはない。

 大学の教員からも生徒自身も、芸術家を目指している者として扱われる。
 そうして各自、『自分なりの絵』というものの描き方に悩み苦しんでいくことになる。

 それに対して『教育大学系』で美術を学ぶ人達というのは、大学に入学してからようやく(本格的に)絵具や粘土等に触れていくこととなる。

 石膏デッサンの様な、デッサンでももう一段階難しいものも、『教育大系』の人達は大学へ入学してから、学ぶことのひとつとして行うこととなる。

 絵画・彫刻・デザインと幅広く学び、絵具等の知識や扱いについても知り、抽象や具象というものにも触れていく。
 そして、『教育大系』の大学での授業であるのだから、彼らは学生に教えることを前提とした立場で学び、扱われていく。

 でも、その『教育大系』へ絵画や彫刻やデザインといったものを教えていく人は、『美大・芸大系』の人の割合が高い。

 (これは、僕が北海道の教育大学の何人かの先生達に会い、直接話して聞いた感想から思うもの。)

 

美大・芸大系』である僕が『教育大系』の人達との会話で特に気になるのは、『描き方』というものを重視し過ぎていることだ。

 僕には、『描き方』は『描きたいもの』の手段や材料でしかないだろうと考えてしまう。   僕は中・高生の頃に、僕の描いた絵を巡り、『教育大系』の人達(学校の先生に限らず)にこんな言葉を掛けられていた。

「こういう絵を描く前に、まずは基礎をやるべきだ」

「デッサンの練習をした方がいい」

「基礎をわかっていない」

 そうして、絵画教室等に入ることを進められていく。
 だが、僕はこういった言葉や絵画教室等に入ること等に反発していた。

「お前なんかに、俺の絵の何がわかるんだ?」

「基礎どうこうの前に、俺がどういうものを描こうとしているか、本当に見て考えて発言しているのか?」

「お前の教えたい絵と、俺の描きたい絵は違う。」

 その当時の僕は、美術部や絵画教室等に在籍している訳ではなく、受験も関係なく、趣味範囲で毎日好き勝手に絵を描いていた。
 油絵や水彩画を描く場面もあったが、漫画等を描いている場面の方が多かった。

 絵画の基礎として、よく『デッサン』等という単語を耳にしたが、幼い頃は、自分の描きたい絵と『デッサン』が繋がるとは考えられなかった。
 それよりも、絵画教室等に通うことで発生する月謝の為に、自分が振り回される気がしてならなかった。

 得体の知れない『基礎』の為に、自分の描きたい絵は描けなくなるかもしれない…そんな不安を持っていた。

 この『教育大系』とか『美大・芸大系』といった理屈は、平田先生と接することで認識はした。
 しかし、内容的なものに関しては、平田先生と知り合うよりも、もっと前から感じ取っていたことだった。

 僕の在籍している美術大学は、入試等のランクとしては低いところにあるので、ここで『美大・芸大系』と考える程、入試時に高い専門技術を求められてはいなかった。

 だからといって、『教育大系』の様に、汎用性の高い基礎としてのデッサン力で競った訳でもなく、どこをとっても中途半端なものだった。

 どこを見ても、本質から外れた何かしらの面倒な要素が絡んでいるような、そんなことを感じとっていた。

 

 今回は『教育大系』を批判するようなことを、長々と書いてしまった。
 もしかしたら、僕の話には偏見もあるかもしれない。

 逆に『教育大系』の人達にも、僕とは違った彼等なりの視点や考え方はあるだろう。

 この件で、僕はそういう人達と会話をする機会がなかったのだ。

 だから、この記事を読んだ方も、これは幾つもある視点や考えのひとつだと受け止めてもらいたい。