絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

大学で取得できる資格・免許4 No.108

博物館学芸員

 学芸員の資格というのは、美術館や博物館等の管理・企画運営をする職員の資格である。

 僕が申請した学芸員資格の実習場所は、名古屋市にある古川美術館を第一希望とし、その申請は受け入れてもらえた。

 因に、第二希望としたのは愛知県立美術館だった。

 その愛知県立美術館は、美術館の規模が大きくなり過ぎていて、国の取り決めている博物館法の範囲に納まっていない施設だと聞いている。
 だから、国で公認している形式の美術館ではないとの事だ。
(これは20年も前の話なので、現在もそうなのか迄は把握していない。)

 どちらの美術館も、その美術館で在職している学芸員の方が大学へ非常勤講師として授業を教えに来ている。

 愛知県立美術館であれば、村田先生。

 古川美術館であれば、若林先生。

 両先生とも、大学の授業以外ででも色々と教わる機会を作ってくれていて、僕はそこへお世話になっていたし、そんな先生達を慕っていた。

 

公的美術館の状況

 これから少し、僕が画学生をしていた時期の美術館の状況を書いていく。

 あくまでも今の話ではなく、僕が画学生の頃に学んだ時の話となる。

 そんな話も省こうかと迷ったのだけれど、アメーバブログの時には、こういう話を読んでくれる人もいた為、この話はここに残しておくことにした。


 美術館や図書館等の施設は、特に多くはバブル時に乱立されてきた。
 その乱立された美術館や図書館等は適切な運営もされておらず、毎年何億という単位の運営費が国の公費から浪費されており、こういう状況を『ハコモノ行政』等といわれて問題視されていた。

 美術館や図書館等の施設を乱立する目的というのは、公的資金を使った建設時に発生する雇用等の経済効果である。
 そして、建設は終わって運営が始まっても、運営方針や計画もしっかりしていない為に、適切な運営をされていない施設は幾つも目につく。

 なぜそうなったのか。

 多くの場合、バブル当時に各地域の市長クラスの独断や判断で、その地域に美術館や博物館を設立できる権限があったからである。

 博物館等の施設運営に関して、博物館法という法律もある。
 しかし、その博物館法のことを殆ど知らず、運営方針もあまり考えないまま、博物館施設の計画や建設を始めてしまう場合が多かったのだ。

 その決断をした人はその人なりに、考えたりはしたのだろうが、端からは勉強や実情への認識は不足している。

 そうして博物館の施設だけ先に完成し、その後から学芸員を揃えても、様々な問題が発生し、殆どの場合すぐには運営出来ない。

 実際に運営が始まっても、殆どの場合で経営は黒字になることは無い。
 素人考えで、『お客さんを沢山入れれば、博物館等は儲かるものだ』くらいに思い込んでいて、運営が始まって初めてその状況の難しさに気付く者は多い。

 上手く運営できていない状況を、管理・企画運営を任された学芸員に向け、「もっと客を呼べる企画をしろよ」と怒り出す者もいる。

 そんな事も知らない者達によって、博物館等の設立は、進められていく場合が多かった。


 そもそも、博物館(特に美術館)はそういう儲けや経済を目的に作るものではない。

 日本にある博物館法というものも、フランスにあったものを殆どそのまま日本へ持ってきたもので、日本の実情を考慮して作られたものではない。

 例えば、公的な博物館(企業の作った博物館は別)では、博物館法のなかで学芸員を一定の人数以上を在職させることへの記述がある。

 しかし、その記述の最後には、「それを満たさなくてもよい」との記述もある。

 実際の小さな博物館での学芸員は、博物館法の記述の通りではなく、コストの問題で一人だけ在職させている場所も多く、博物館法の記述通りに学芸員を在職させている博物館はなかなか見当たらない。

 だから、学芸員やその資格を学ぶ側の会話のなかで「それなら最初から、そんな記述をするなよ」という言葉も飛び交っていた。

 公的な博物館や美術館を名乗る為には、ある程度は博物館法に乗っ取った運営をしなければならないのだけど。

 現場や日本の実情と合致していない部分も多いものだから、矛盾した条文も多いのが実情だ。

 

生涯教育

 ではそもそも、博物館とはどういう意味合いのものなのか、という話を書いていく。

 美術・芸術に限らず、色んな分野で『生涯教育(生涯学習)』という言葉が使われていて、博物館という存在もその範疇にある。

 

『生涯教育』とは、小学・中学・高校・大学という様な学校での教育とは方向性も少し違う。

 各個人が、自身の生活や気持ち等を豊かにしたり、仕事に就いている者が、その仕事内容の視野を広げたり深く知っていこうとする行為である。
 その為に、個人でお金や労力等を使いながら自主的に学んでいくものを『生涯教育』という。

 博物館というのは、その『生涯教育』に関する施設のひとつという事なのだ。

 

 村田先生の授業でも、実際に収益を出して黒字経営の博物館や企画展のことや、海外の博物館経営のこと等、多くのことを教わった。

 実態として、学芸員の採用試験は難易度が高すぎる様だ。

 実際の博物館の学芸員になる者も、美大や芸大の出身者は稀で、一般大学の大学院で必死に勉強していた若林先生でも、学芸員になれたのはたまたまの偶然だといっていた。

 だから、一般的な勉強もダメダメな僕が学芸員になる機会など、まず無いだろうと理解はしていた。

 それでも、資格取得の過程で学んだことは、とても良い勉強になったと思っている。

 

博物館学芸員の実習

 博物館学芸員の資格の為の実習は、とても楽しかった。

 何が楽しかったかといえば、実習生どうしでの会話ややり取りだ。

 実習生は5人居て、僕を含めた4人は美大・芸大等に通う画学生(その内、3人は日本画専攻で、一人は洋画専攻)であり、1人だけは一般大学の生徒だった。

 僕を除き、皆が女性だった。

 1人だけ一般大学の生徒だったといっても、美術館を選んで実習の申請をしているだけあって、絵を見ることは好きな人だった。

 僕は美術大学へ入学するまで、絵について語り合える友人が出来ることを期待していた。

 しかし、通っている大学では、そんな関係になる友人は、日本画を学ぶ生徒のなかにはいなかった。

 細かいことを言ってしまえば、僕の存在はまわりに迷惑をかけるばかりであるからと、僕側から身を引いて離れていった訳ではあるけれど。

 そういう配慮をせずに、絵について語り合いながら実習を進められたことが、とても嬉しかった。

 学芸員の資格の為の実習が、教職免許の為の教育実習と感じが違う背景もあり、そういう要因も手伝っていたと思う。

 教職免許の為の実習では、実習生へ指導する指導員の仕事上の負担が増えることもあり、厳しい指導と多くのやることが待っている。

 学芸員の資格の為の実習では、多くの場合は、その博物館での雑用が中心となる。

 博物館側は、実習依頼・手続き上でお金を受け取りながら、雑用をしてくれる労力としても喜ばれる部分もある。

 だから、学芸員の実習に関しては、教職免許の教育実習よりも大幅に緩い環境にあった。

 

 学芸員の実習を一緒に行っていた実習生の内、2人は愛知芸大(愛知県立芸術大学)の日本画を専攻する生徒だったこともあり、絵について語る内容も充実していた。

 それから実習は終わりに近づいていた頃。
 何気ない会話のなかで、こんな言葉を掛けられる。

「高木くん、来年は私達のいる愛知県芸の大学院で、一緒に絵を描こうよ」

 この言葉を掛けられ、僕は理屈的に何かを考えるよりも先に、涙腺が緩んでしまった。
 僕はその言葉がとても嬉しかったのと同時に、在籍している美術大学での様々なことも、考えのなかに重なっていた。

 そう出来るならばそうしたいと、僕のなかでは考えてはいた。

 それでも、在籍している美術大学での教員達とのトラブルが、それを許さない環境を作っていた。

 そのトラブルに関しては、これまで散々に書き綴ってきたので、ここでの記述は省くことにする。

 

 学芸員の実習で一緒だったうちの1人は、同じ美術大学へ通う洋画を専攻する人物だった。

 実習で知り合って、大学で会ったときには、たまに会話をしたりもしていたけれど。

 そういう状況が、やはり日本画の同級生達の悪戯心を刺激してしまう。

 

 日本画の生徒間で、僕は2年生の前半辺りから誰とも会話をしなくなっていた。

 それでも僅かずつではあるけれど、彫刻や洋画やデザインを専攻する人達に、友人として会話する人物はいた。

 日本画の一部の同級生達は、そういう僕の人間関係をぶち壊そうと、僕への人間性批判を学科(午前中の講義の)の授業時間や休憩時間等でまわりに聞かせるために語り、他の科や学年の生徒等へ僕への悪意を広めようとする。

 しかし、そういう悪意に話や意見を合わせて面白がっているのは、主には日本画の同級生ばかりであった。

 そういう場面を見かける他の科の知人関係は、それ等の行為に対して「日本画は陰湿だ」と認識して「そんな陰湿な人達と仲良くしようとは思わない」と僕へ語り聞かせてくれていた。