日本画制作の為の裸婦デッサン4 No.60
白いデッサンと黒いデッサン
1年次からこの頃まで、特にS先生とA先生(女子)から、デッサンも日本画制作も、まわりの生徒の制作をお手本として見て、それと同じ絵を描けと言われ続けてきた。
だが、僕には同級生の絵を、そんな風には見れない。
この時のデッサンも、漫画や浮世絵の様に輪郭線を探って描き、ぬり絵の様に、肌の部分は鉛筆を寝かせて薄く塗り込むように描いている。
そういうデッサンを、I先生やS先生は『日本画に適したデッサン』とか『基礎』などという言葉を使いあ言いながら褒めているけれど、僕にはその理屈が、素人臭くしか聞こえない。
これを本気で言っているのか、黒いデッサンをやっている僕への当て付けとして、そういうことを教えてきているのか、当時の僕には判断ができなかった。
単純に僕への嫌がらせにしているのだとしたら、それをまわりの生徒も真に受けているので、生徒全体に対しても嘘を教えていることになる。
当時の僕には、絵描きにとっての絵は人生そのものと考えていたもので、美術大学の教員が自身の意地や機嫌等によって、生徒に嘘を教えて陥れるなんて発想自体が持てなかった。
だから、僕はいつまでも何かの間違いや誤解や行き違いと考えようとする。
ここまで書き綴っていても、流れとして盛り込み辛く省いてきた話は多くて、そのなかの話。
S先生とI先生は、白黒写真の様な白いデッサンこそ、日本画の生徒はやるべきデッサンだと語り、同級生達もそういうものだと認識して制作を行う。
実際の僕との会話のなかでも、S先生は『白黒写真と見間違える程のデッサンこそが、基礎を突き詰めた、本当に技術力の高いデッサンなのだ』と語っていた。
しかし、僕はそうは思わない。
僕は、白黒写真と見間違う様なデッサンを否定はしないし、それは『鉛筆画』という様なもので、描きかたのひとつとして認めてはいる。
でも、それが基礎とか技術力の高い高度なデッサンだとは思わないし、白黒写真の様なデッサンを目指すというのは、基礎とはまた別のことである。
同時に、絵画の基礎を学び始めた経験の浅い者達が『白く綺麗なデッサン』という幻想に陥り、デッサンの基礎を学ぶという行為から遠回りする場面も多く、そういう性質のものにも感じる。
補足として、受験用の日本画のデッサンで『白く綺麗なデッサン』と語られるものは、特にデッサンを特集した本などでそれらしいものを見かける。
白いデッサンを語り描こうとする者達は、皆そういうものをイメージしてデッサンをしているのだろう。
でも、そういうデッサンは、デッサンの基礎をしっかり持った上での技術力でやれていることで、濃い鉛筆や木炭の使用を禁じたり、輪郭線を引いてぬり絵の様に塗るデッサンに捕らわれている限りは、そういうデッサンには近付くことはない。
学び上達する過程では、そういうことを考えるのも良いのかもしれないが、過程としての考え方である。
そういうことを、美術大学の教員がわかっていないから、デッサンの授業をやっていても、そういうことも教えることはできず、おかしな方向へと生徒を誘導してしまう。
また少し視点を変えた話で。
美大や芸大の入試では、基礎を身に付けているかどうかを見て合否を判定している。
だから、大学へ入学してきた時点では、それなりの基礎を身に付けている前提で『受験用の絵画に縛られずに、自由に絵を描きなさい』という言葉を、大学の教員からかけられる。
そういう基礎を通過した上で、生徒は抽象や具象を問わず、自分の為の絵を考えて自主性を持って学ぶというのが、どこの美大や芸大でも話られる今の大学での教育の在り方である。
だから生徒の意思や考えとして、基礎を通過した上で白いデッサンをやる・やらないというのも生徒の意思であり、教員側から怒鳴り付けられながら強要されることではない。
同時に、黒いデッサンを突き詰めて学ぼうとするのも、生徒の自主性のなかで許される筈のものである。
この美術大学へ入学してくるより以前。
僕に絵を教えてくれた人達は、少ない言葉で言ってしまえば『デッサンは黒い方が良い』と語る。
後々、日本画教員達とのトラブルによって、僕はこの大学の洋画や彫刻やデザインの先生とも、絵に絡んだ話もするのだが。
その教員達の皆が、デッサンは黒い方が良いと語っていた。
そういう認識のなかで、この大学の日本画教員達だけが白いデッサンを信仰している。
デッサンで、白い紙に描く黒い線や色は、情報なのだ。
例えば、白いモチーフを描くとして、その白いモチーフからどれだけのものを感じとれたかが、描かれたデッサンそのものである。
白い花や野菜やプラスチック製品であっても、僅かに色がついていたり、白い色を発色する過程では光を吸収や反射していて、そこには質感や質量を表す現象がある。
人の白い肌といっても、その肌の下には骨や筋肉や脂肪や血管などがあって、それが結果として皮膚の表面のかたちにも現れる。
そういうものを、どれだけ感じ取りながら紙に描き込んでいくかというのが、デッサンの基礎である。
上手く文章に出来ていないので、誤解を招いたり、デッサンについては不足している話もあるかもしれないが。
デッサンである程度の苦労や経験をしてきた人なら、これ等はわざわざ語るほどでもない当たり前の話だと思う。
僕は、そういうものが当たり前だと思いながらこの美術大学へ入学して、そういうつもりで絵について語ろうとしてきた。
でも、それ等の話が会話としても成立しない。
思えば入学した最初の月から、絵についての話が噛み合わず、僕は誰よりも力の劣る存在と決めつけられ、絵についてのまともな会話などして貰えなかった。
入学したての頃から陥ったあの状況も、このデッサンでのトラブルと同質のものだったのだろう。
着色写生
課題の流れで、デッサンの後には、水彩絵具での着色写生に切り替わる。
着色写生の作業に入ると、I先生とS先生からは、一度も声をかけらることはなかった。
着色写生でも、ある程度の制作が進んでくると、僕の絵を後ろから覗き見してくる同級生が何人か現れる。
そういう生徒の主は女子であり、男子生徒は、いつも僕の批判ばかりしている。
「こういうの描かせると上手いよね」
「私もこんな風に描けるようになりたい」
「どうやったら、こういう風に描けるようになるんだろう」
そんな会話や言葉を、ポーズの合間に、後ろから何度も聞こえてくる。
S先生とI先生の指導や、褒めている生徒の作品に対して、違和感を持っている生徒は何人か見受けられた。
そういうなかで、僕のデッサンや着色写生に好感を持っていたのかもしれない。
生徒間の悪意に流されてきて、こういう場面を景気に僕と交流を持ちたく、わざと聞こえるようにこういう言葉を発していたのかもしれない。
でも、僕はそういう言葉に応えることは出来ず、聞こえない振りしか出来なかった。
大学での人間関係が荒れていなければ、そういうことを言ってくれている同級生達へ、色々と教えたりもしただろう。
そうして、同級生達が力をつけてくることで、僕も感化されたり、競いあったりする状況を何度も夢見たりした。
でも、僕の絵の技術や考え方というのは、日本画の教員達が怒鳴り付けながらも否定しているもので、多くの同級生達もこれに同調している。
そういうものを、僕は自己責任の範疇でやっているけれど、誰かに教えて一緒にやる訳にはいかない様に思える。
人間関係にしても、僕と接することで、多くの交遊関係が壊れていくのは予想出来る。
そういうことを考えると、僕は黙って孤立することこそ、適切なのだと考えた。
後になって、こうすれば良かったと思えることはあるけれど。
それは後になってからの考えで、この時は、こういう考え方しか出来なかった。
ある日の午前
ある日の講義の授業での話。
いつも午前中は講義の授業がある。
その講義の時間内でも、同級生達は僕の悪口を語り、他の学年や科の面識のない生徒達へ、僕の惨めさを伝え広めていた。
このこと自体は、一年生の頃からずっと行われていことであり、この時になって始まったことではない。
僕はその行為を何度も見かけながらも、相手にしなかったし、そういうものを見かける程、僕は絵を描く行為に集中しようと意思を強めていた。
しかし、この頃は状況が深刻化している。
というのも、この年の日本画の新入生歓迎会から、欠席した僕の悪口で盛り上がり、日本画の教員達もそれを見ながら容認する。
その後のデッサンの授業で、I先生とS先生は僕に対して、疑問に思える内容怒鳴り付ける等の圧力をかけた末、同級生達に対して「高木は頭がおかしいから、関わらない方がいい」と語り始める。
一部の同級生達にはその状況が楽しく、日本画以外の科の生徒がいる場面で、日本画教員達の僕に対する怒り方や酷い扱いや、生徒間では誰も相手にせず孤立している話などを語り「高木とは関わらない方がいい」と教えまわる。
そういう日本画の同級生達の悪意に、他の科の生徒達は『日本画は陰湿だ』と受けとったり、相手にしないなどして、彼等と距離をとろうとする人達をよくみかけていた。
ただ、これは悪意の対象である僕側の視点なので、上級生や教員達の同調の時の様に、僕のいない処では、そういう悪意の同調をしていた人物は、意外といたのかもしれない。
それに加えて、この日は朝から『いじめによって自サツした中学生』の話が、テレビのニュースやワイドショーなどで話題となっていた。
同級生達は、その話題と僕とを繋げ、実際には僕の名前を挙げて
「よくいじめとかで自サツするのは、高木みたいな奴なんだ」
「俺が高木みたいな状況だったら、この学校やめるか自サツする」
「高木とは関わらない方がいい」
「あいつは本当にみじめな奴だ」
等と語り、他の科の生徒達にも僕への悪口を語り聞かせていた。
そういう時に、たまたまその授業の先生が僕を指名して意見を求た時。
同級生達は大きな声で「うわぁ、高木だぁ~」と叫び出す。
その授業を終えてから、僕はその人物達に「お前等、いいかげんにしろ」と注意する。
その注意も、彼等は笑いながらも聞こえていない振りをして、素通りされる。
それに対して、僕はそれ以上の詰めより等はしなかった。
1年生の頃。
こういう同級生の悪意の問題で、迷惑をかけた同級生は数人いた経験もあった。
だから、同級生達のこういう行為を見かける度、現状では僕が誰かと仲良くすると、その人物まで不幸にしてしまうと考えてしまう。
一番の原因である教員達との誤解も、もう溶けることはない。
だから、僕はこのまま孤立して、自分のことだけ考えるべきだ、という考えを深めていく。