絵とモラル No.67
先に結論を
S先生から『絵を描くのに、モラルなんか関係ない』という言葉をかけられて、当時の僕は、日本画画家の安田靫彦のことを頭に浮かべた。
安田靫彦の話の前に、今回の話の結論を書いておくと。
僕個人は、絵とモラルは関係あると信じているけれど、絵を描き評価されている人が、そのまま素晴らしい人だとは思っていない。
矛盾して聞こえるかも知れないが、芸術を仕事にして生きている人達は、かなりの割合でいい加減でモラルのない人達だった様に思う。
でもそれは、力がないから嘘をついたり、言うことをコロコロ変えて二枚舌になったり、自分より立場の弱いものに圧力をかけたりするのだと思う。
日本画の作家に絡んだ本を幾つも読んでいると、人のモラルとか人徳とか人柄とかは、その人物の描いた絵にも繋がることとして書かれていることが多い。
本や物語や文章として、そういう書き方をした方がまとめやすいからかもしれない。
こういう話も、関係ある人には関係があって、関係のない人には関係ないのだと思う。
因みに、S先生は僕に対して『絵を描くのにモラルなんか関係ない』と言っては来たが、この大学の日本画教員達は、みんな関係あるという前提で話をする。
全ては、力がないからなのだと思う。
安田靫彦(やすだゆきひこ)
この頃の僕は、安田靫彦の絵を見ても難しいイメージばかり持っていて、よくわからないという感想が先行していた。
安田靫彦は歴史画を多く描いていて、僕の教養の無さも手伝って、そういうイメージだった。
Modern art bot on Twitter: "安田靫彦:日食 (1925) 東京国立近代美術館 https://t.co/JdQNYWFgCi… "
でも、幾つかの本のなかで、安田靫彦の語った言葉が幾つも出てくることで、その存在に興味は持っていった。
そうして、色々と本を読んでいく過程で、安田靫彦の絵も繰返し見ていくことになり、不思議というか自然にというか…安田靫彦の絵は面白く見えるようになっていった。
安田靫彦の本名は安田新三郎。
生きていた時代は、 1884年(明治17年)~1978年(昭和53年)。
僕自身、安田靫彦のことを詳しく知る者でもなくて、これからの話も、むかしに読んだ本の記憶でもある。
もっと正確に詳しく知りたい人は、ネット検索等して欲しい。
ここからは、ある本の話。
その本は、↓これだと思うのだけど…少し自信はないかな。
安田靫彦は、元々病弱な人だったそうで、生きていく過程でも画業でも、苦労する場面は多かったようだ。
若い頃、そんな安田靫彦を支える年上の女性で『お葉』という人物がいた。
安田靫彦にとっても、お葉にとっても、お互いは大切な存在であった。
いつの日か、安田靫彦の画業が軌道に乗っていった頃、あるお節介を受ける。
お葉が所用で少し出掛けた時、そのお節介者は安田靫彦へ、お葉との縁を切ったらどうかという話を切り出す。
というのも、お葉は安田靫彦以外の男性と肉体関係を持っているのだと伝えてくる。
でも安田靫彦にとっては、そんなことはどうでも良かった。
安田靫彦は病弱な身体から、お葉を慰めることは出来ずにいた。
それでも、お葉が自分の処に帰ってきてさえすれば、それで良いと考えていた。
だが、そのお節介者の言葉に耳を傾けたその日から、お葉は帰ってこなくなる。
それから、お葉の噂は時折流れては来ても、再開することはできず。
十年以上の月日を経て、お葉は心中の水死体としてあがる。
安田靫彦はそこへ駆け付けることで、最後の再会を果たし、本の物語は終える。
こんな話を読んで。
安田靫彦という歴史画の大家と言われている人物で、難しいイメージの人でも、思考的には全く理解できない存在ではないのだな、等と僕は考えたりした。
その当時の生徒だった平山郁夫の思出話を、↓下の本でも少し書かれている。
本のなか、平山郁夫の思い出の話で。
『講評会の場で絵を見て貰っている時、安田靫彦先生は「前回や前々回はああいう絵を描いて、今回はこういう絵を描いているのですね」等と語られたりもする。
こちらとしては、過去の不出来な絵であっても、安田靫彦先生は生徒の描いた絵をしっかりと覚えている。
その上で、真摯に絵の指導を行ってくれる先生であった。』
僕がこういう話を読んでいて、僕が在籍して学んでいる美術大学の環境とは違うなぁと考えてしまう。
同時に、僕がこの美術大学へ入学する迄に聞いていた、大学では生徒の自主的に模索検討しながら学んでいく環境だという話とも繋がる。
この大学の教員達も、言葉の上だけなら『自由に絵を描いていい』とか『いつまでも受験絵画を引きずるようでは困る』という様な、よく耳にするような言葉を口にする。
それでも『自由と言っても、本当に自由に絵を描いていい訳じゃない』という矛盾したことまで言ってしまう。
僕個人の問題に置き換えると、僕は教員達に指摘されるような抽象画が描きたいわけではない。
教える側の強要してくる指示によって、僕の絵はいつもグチャグチャしたものに持っていかれ、それに対して『また抽象画をやっている』と怒られているだけなのだ。
どちらかというと、僕はどの生徒よりもしっかりした技術を身に付けないという考えを持っていて、自由よりは古典を学ぼうと動いている。
しかし、その学ぶ手段がわからず、教員達に聞いても教われず、結果として、本を読んで知るしかなくなっている。
僕は洋画や彫刻やデザインを専門とする人達に多くを学んできて、大学での勝手や考え方が通用しないのは、洋画と日本画との違いだと考えようとしてきた。
でも、こういった本を幾つも読んでいると、結局は『この教員達の言っていることがおかしいだけではないか』という考えに戻される。
絵とモラル
この話の当時、僕は古川美術館という名古屋市千種区にある美術館へ、よく足を運んでいた。
その美術館で『師と弟子展』という企画展があり、その展示が好評であった為、美術雑誌にも展示内容を掲載されていた。
その企画展を企画した若林さんという女性の学芸員さんを、僕は頼りになるお姉さんの様に慕っていて、その若林さんも色々な話しを聞かせてくれていた。
そういう経緯から知った話。
安田靫彦の弟子には片岡珠子という人物がいて、後々には、かなりの有名な日本画画家となる。
その片岡珠子が、まだ画業がうまく行かず、寝食を疎かにして絵に打ち込んでいた頃。
安田靫彦は、片岡珠子にこんな言葉をかけている。
『絵というのは、普段の何気ない習慣や考えが、意図せずあらわれてしまう。
だから良い絵を描くためには、普段の生活からきちんとしなければいけない。』
この話を、人によっては綺麗事とか建前とか、そういう意味のない言葉として片付ける考え方もあるだろう。
それでも、S先生が僕へ語った「芸術の世界は汚い世界なんだ」「絵を描くのに、モラルは関係ない」といった言葉の数々と、安田靫彦について残された話や言葉とが、日本画という同じ世界観を持ったものとは考えられないでいる。
バブルの時代に活躍して美術大学の教員となった人達に対して、バブル崩壊後に学生をしている僕、という世代的な傾向なんかもあるのかもしれない。
いつも、こういう考え方で損をする方向に向かってしまう自分は、愚かで世間知らずでお人好しだと気落ちする。
こういう僕の考え方は、大学を卒業して、その後も色んな人の都合や悪意に揉まれても、基本的には変わらずにいる。
人の考えの根本というのは、なかなか変わるものではないのかもしれない。