竹籠と野菜の静物画2 No.20
画学生時代の課題について語っている訳だけれど。
幾ら細かく書き綴っていても、今はその実物が手元に無いため、画像を貼ることもできないでいる。
だから僕のこの話は、話し半分にでも受け取ってほしい。
制作の意図
3つ目の課題では、『光があたった結果現れるものは、一切描かない』という最初の課題の話に反発している様な内容で制作した。
モチーフや背景も含めて、絵の画面全部を影として描いた。
影というのは、光の当たった結果現れるものであり、K先生(女子)の述べていた指示からは離れたものになる。
それと、K先生(女子)を除いたこの大学の先生達の傾向としては、濁ったような沈んだ色合いを好んでいる様に僕には見える。
ただ、この描き方も、僕が元々描きたい描き方ではないし、これまで学んできたものとも違う。
僕が思う様な描き方というよりも、教員たちの考え方を探ったり、この絵をもとにした会話を期待する意味合いのものだった。
描こうと思えばこういうものも描ける、という処を見せようとしていた考えもあったが、実際にやってみると、かなり作業面で難航はしていた。
技と言えるものの話ではないが、それまで何年も描いてきたやり方やモチーフの見方等の方向性を変えて、新しい絵を作り出すというのは、要領の悪い作業の連続になる。
僕自身も、鈍臭くのんびりした性格であり、そういう処から要領の悪い作業になっていたのだろう、とも考えてはいる。
それでも頑張って制作していたものの、講評会の日の朝まで徹夜で作業をしていて、講評会寝坊して欠席してしまう。
K先生(女子)に限っては、求めても講評会の場でしか、僕との会話はしてもらえないと認識していた。
この頃、K先生(女子)は僕を物凄く嫌っていると聞いていたし、僕もK先生(女子)には嫌悪感を持ち始めていた。
それでも、K先生(女子)は絵に対して、他の教員よりも真剣に取り組んでいる人と見ていた。
僕の学びたい技術を多く持っていて、僕の描きたい絵の方向性も、この美術大学の教員に限って言えば、K先生(女子)が一番近かった。
ただ性格面では、相性は悪いのだろう。
そういう人から、僕の描いた絵ついての話を聞ける可能性があったと考えると、講評会には出たかった。
きちんと絵に向き合った上での講評であれば、キツい言葉をかけられても、言い合いになって揉めても、それはそれでいいとは思っていた。
勿論、そういう可能性や期待の話であり、これまで通りに内容なく、僕の絵だけが馬鹿にされて終る可能性も感じていた。
それでも、今回は自分の意思だけではじめて描いた課題であり、僕としては、それまでの課題とは意味合いも違っていた。
そういう内容からも、自分のやってしまった寝坊と講評会の欠席には、残念な思いが強かった。
課題の提出
講評会の後、制作した課題を提出する。
提出時は教員達が忙しそうにしていた為、後日に研究室でS先生を指名して、提出した課題を見てもらう。
僕の求めに対して、S先生は課題(絵)の積み重なったものを探す。
それから、課題を一枚ずつめくりながら「高木の絵はこれか?これか?これか?」と、冗談で、わざと変な言い方をしながら聞いてくる。
そのことに対して僕は何も言わなかったが、本音は、僕はいつも真面目な意思や質問や求めをしてきたのだが、S先生はそれを茶化し馬鹿にしている様にしか見えなかった。
考え方のひとつとして、僕からピリピリしたものを感じ、そのやりとりを柔らかなものにしよくとした、というのもあったかもしれない。
それでも僕には、これ迄のやりとりも含めて、S先生からは馬鹿にされている様にしか受け取れずにいた。
S先生がめくっていく同級生達の課題(絵)は、どれも大した差も感じない似たり寄ったりのものばかりに見えるし、僕より力を持った者達の作品とも思えなかった。
そこから、ようやく僕の提出した課題は出てくるのだが、僕の絵だけは違って見えることに、自分でも驚く。
絵を描いている人なら、自分が長い時間をかけて描いた絵が、それと同じ様な絵に紛れていても、自分のものが特別に思えてしまう経験はあると思う。
そういう部分も、多少は有るとは思うけれど、もっと何かが違って見える。
もう少し語ると、同級生達の塗られた色は粉っぽく塗り重ねているのに対して、僕の色だけは艶っぽく見える。
この僕の絵だけの持つ艶っぽさや、他の生徒と感じが違うということは、これまで僕だけが教員達から注意を受け続けてきた経過もあり、不安な気持ちを持ってしまう。
これが悪いことではないと解っていても、みんなで同じ課題をやっていながら、自分の提出物だけ大きく感じが違うというのは、どうしても不安を持ってしまう。
一応、この艶っぽさの件は、この場では問題にはならない。
それでも二年生になってから、僕だけが違う感じを持っていたり、艶っぽい発色をだすことで、また新たなトラブルになる。
ただ表面化せず、この時点から多くの問題を孕んでいた、ということだ。
S先生は僕の課題(絵)を見て、少しだけ言葉に迷い「こういう風に描けばいい」とだけ言う。
この言葉だけで、僕の絵に対しての批評が終わったことに、僕は納得できなかった。
このS先生とのやり取りについての話は、まだ長く書くことになりそうなので、今回はこの辺りで区切ることにする。
それと、僕の絵が持つ艶っぽさは、当時はしばらく悩む要因ではあったけれど、ここで結論を書いておく。
後になって考えてみれば、これは作業性の問題である。
同級生や何人かの教員達も、複数の絵具を紙の上に塗り重ね、塗り重ねた絵具・色が混じりあっていくことで、大雑把に色を作っていく。
そこから、最後は仕上げ用の絵具で整える描き方をしている。
僕の場合は、早い段階から完成時の色合いを想定していて、同じ色を何十回と塗り重ねて色やグラデーションを作っていた。
これは、描きたい絵の方向性にも関係している。
殆どの教員や生徒~早い話が僕以外の全員、絵具の厚みを持たせた戦後の新しい日本画の方向性へ向かっていた。
それに対するK先生(女子)だけは、戦前に体系化した日本画を学んできた人で、それを日本画の基礎として生徒に教えようとしている。
僕が学ぼうとしている日本画も、K先生(女子)の教える日本画であり、上村松園や伊東深水の様な日本画をイメージしていた。
上村松園「娘」大正15年(1926)
【松伯美術館】 「『創造への挑戦』上村松園・松篁・淳之 展」 を開催します。|公益財団法人 松伯美術館のプレスリリース(配信日時:2020年6月23日 14時00分)
そういう部分からの絵具の扱いや発色は、艶っぽさと粉っぽさにわかれていた。
僕は、粒子の細かな絵具や、染料や墨や胡粉、そういうものを好んで使い、塗り重ねの手数も極端に多かったせいもある。
この状況の認識や把握を、僕はもう暫くしてから持っていくが、この頃はまだ、ここまでの認識や把握はしていない。
S先生やA先生(女子)に関しても、そういう認識はずっとしていなかった様で、これ迄のトラブルや、大学の二年生以降のトラブルなんかも、核心はここにある。