絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

ふたつ目の課題1 No.17

鳥の剥製の日本画制作

 大学のふたつ目の課題でも、起こることは殆んど同じ様なもので、険悪さばかり増していく。

 僕自体は、教員たちの教え方や考え方等を早く理解しようと考え、それ迄と同じく質問を繰り返していた。

 その質問や疑問などの僕の話など、S先生とA先生(女子)は聞き入れず、その都度、理解に悩む指示ばかり出してくる。

 その為に、僕は自分の本来の描き方を保留し、教員達の指示を満たす描き方を考えるが、大学へ入学する迄に学んできた絵画の基礎と統合できず、悩んでいる。

 同時に、その悩み苦しんでいることに、『悩んだり迷ったりすることなんか、何もない!』と怒鳴られたりもしていた。

 

 このふたつめの課題のはじめから、前回の課題であったテッポウユリと同じ流れは生じている。

 だから、今回の課題でも同じ様な結末になることは目に見えていて、僕はA先生(女子)へ、描き方についてこう求める。

「一度、僕が思うように描いた上で、出来上がったものに注意を受けるのではいけませんか?」

 この求めに対しても、A先生(女子)は「ダメ。言われたことをやりなさい!」と怒る。

「先生達の言っていることも人によって違って聞こえるので、誰かの一人の言っていることだけに絞って制作してはダメですか?」

 という提案のようなことを言っても、やはりダメだと怒られる。

 教員達の人あたりについては、K先生(女子)が少しだけ強めに感じるものの、S先生とA先生(女子)はとても優しい先生という印象がある。

 教員達は、新入生達に優しい言葉をかけようとしている様子は見てとれる。

 とはいっても、僕に対してだけは、K先生(女子)もA先生もS先生も、みんな厳しく怒ってくるので、その様子を見ている同級生達(特に男子達は)笑い面白がり、生徒間でも僕はバカにされながら遠ざけられていく。

 

 状況から察すると、入学して勝手の解らない内は、わかった振りをして暫く傍観し、まわりと同調するのが適切なのだと思う。

 それをここで後悔しても手遅れで、僕は教員達に目をつけられ、制作の過程を細かく見張られている。

 塗る絵具の選択や筆運びまで、A先生(女子)なりのやり方と違うもので、細かく批判される。

 僕はうんざりする気持ちを圧し殺し、その批判や指示に従っているつもりだった。

 僕なりの描き方をやらず、A先生(女子)がやらせようとする描き方に合わせ、そのやり方を把握しようと考える。

 その為の質問を持ち掛けるのだが、僕のその質問も無視される。

 それから、S先生とA先生(女子)は、僕に絵を教えてきた者達の否定を始める。

 「今まで高木くん(僕)に絵を教えてきた人達の程度が低すぎたんだ。だから、今まで教わってきたことは、全部忘れた方がいい。」

 こんな言葉を最初に言い始めたのはS先生で、研究室でのやり取りだった。

 その後、同級生達のいる教室でも、同じ内容の発言をA先生(女子)は始める。

 それを聞いている同級生達も、そんな認識をもって、僕を責め立ててくる様になる。

 僕は、この発言だけは我慢することは出来ず、この発言に対してだけは否定をする。

 

 『僕の通っていた予備校は、小さい処ではあったが、程度の低い処ではなかった。

 夏期講習や冬期講習の時期には、武蔵野美術大学の洋画の樺山先生(名誉教授)がやってきて、絵を見て貰ったりもしていた。

 他にも、たまにではあるが。

 彫刻やデザインの先生などで、武蔵野美術大学多摩美術大学の先生達から、デッサンや着色写生を批評してもらっていた経緯がある。

 絵についての会話は、僕とこの美術大学日本画の先生達とは全く噛み合っていない。

 それでも、武蔵野美術大学多摩美術大学日本画を除いた先生達とであれば、基礎についての会話は噛み合ってきた。

 僕の語る絵の話というのは、根拠のある基礎を基にしたもので、適当でいい加減な話ではないのだ。

 僕個人の能力不足を批判されるのは我慢するが、僕に絵を教えてきた人達をバカにするというのは筋違いだ。』

 S先生とA先生(女子)に対して、この時期から何度も、こんな内容の反論や意見を述べていた。

 それでも、僕の話なんかを聞き入れてくれることなんかは無かった。

 僕はこの件では怒るということを、一部の同級生達が認識する。

 そのことで、特にToは敢えてこの話題で、僕を繰り返し責め立ててくる。

 そんなことをするものだから、この頃の僕とToは、座席が近いこともあって頻繁に口論をしていた。 

 

教員達の都合

 僕の予想でしかないのだが。

S先生とA先生(女子)の立場は、教員のなかでは下の方にあったのだと思っている。

 下っ端だから、面倒なことは率先して行う役割を持っていたのではないか。

 だから、生徒が質問を持ってきたなら、S先生とA先生(女子)がそれに対処しようとし、他の先生には取り次がなかったのかもしれない。

 

 日本画の教員達は、『言っていることは違って聞こえるかも知れないけれど、実は同じことを言っているのです』とは語る。

 でも、S先生とA先生(女子)の教えることに対して、K先生(女子)の教えていることは明らかに違っていた。

 当時の僕や同級生達も、具体的にはわかっていなかったと思うが、何かが違うとは思っていた。

 A先生(女子)は、日本画の絵具の溶き方や扱い方といった、日本画の基礎的なことを教えてくれる。

 その基礎的なことは、日本画の教員達が全員共有していることと見ていたが、実はその辺りからの違いを持っていた。

 K先生(女子)は非常勤講師でありながら、S先生とA先生(女子)は、目に見えて、K先生(女子)に言葉尻を合わせている。

 正規教員で助教授である者なのに、非常勤を立てて言葉尻まで合わせてしまう。

 

 このK先生(女子)は、院展という美術団体の会員であり、片岡珠子という各方面に影響力を持つ有名な画家の弟子という立場にもあった。

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片岡球子 - Wikipedia

 K先生(女子)は生まれつき体が弱いらしく、その関係から正規の教員にはなれないそうで、その為に非常勤講師という立場にある。

 他の教員は、皆が日展の会員であった。

 今はまだ、S先生とA先生(女子)しか教員の名前は出てきていないが、このほかにK先生(男子・教授)とA先生(男子・教授)とI先生(非常勤講師)といった教員もいる。

 

 この頃はまだ、僕はそこまでの情報を知らなかったし、生徒間でも完全には孤立していなかった。

 この頃の生徒間の会話で、公募展の日展院展は、どちらの展示の方が面白いかという話題になっていた。

 この会話では、誰もが日展を推していながら、僕だけが院展を推していた。

 公募展の主流が日展に対して、院展は古典回帰の様な考えを持っている組織で、展自作品も少し古くさく見える傾向にある。

 同じ大学で同じく日本画を学ぶ生徒であっても、僕は近代の日本画を好み、そういう絵を学んで描こうというイメージがあった。

 それに対する他の生徒たちは、現代の日本画らしい絵を描くイメージを持つ人物ばかりで、その部分から考えは大きく違っていた。

 そういう違いからも、同級生達は「高木は頭がおかしいから仕方ない」と語り、僕も「あぁ…そうかもね」等と言葉を返し、そういう生徒達との会話も控えていく。

 

 後々のことを書いてしまうと。

 描き方についての問題は、一年生の後半で一旦は終息する。

 しかし、僕が戦前の絵から学ぼうとする方向性を持っていたことは、二年次から新たなトラブルになる。

 K先生(女子)の教える日本画院展という組織は、僕の学ぼうとする日本画とは、非常に相性が良かった。

 そのことに反して、この美術大学日本画の教員達は、基本的には日展で固められている。

 この大学が基本的に教える日本画と、戦前や古典的な日本画は、非常に相性が悪かった。

 そういう状況も関係しているのか、S先生とA先生(女子)は、僕をK先生(女子)と接触させないように頑張ってしまう。