絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

受験後 No.10

 大学受験が終わり、自分の望んでいた大学ではなかったけれど、なんとか美大生になることができた。

 この合格通知は、母にはより一層苦労がかかる始まりでもある。
 僕の家庭は母子家庭で、学費や生活費などは母ひとりの労働に頼る。
 ここでかなりの苦労をかけるのだから、いつかは恩返しをしようと、漠然と考えてはいた。

 

格通知を受け取ってから

 古くからの友人のなかには、僕の美術大学への合格に、苦い思いをしているやつもいた。
 その友人たちは、本当はやりたい進路があるのだけど、その道へ進めずに燻っていて、美術大学へ進学する僕が羨ましい…そんなことをグチグチ言うのだ。

 中学で知り合い、高校は別々のところへ進学したけれど、時々は会って会話をする間柄だった。

 それだけに、学生時代の彼等のことは多少は知っているのだが、そういうことを言うほどの何かをしてきた訳でもない。

 僕にしてみれば、高校生の頃から楽しい時間を過ごしてきた彼等の方こそ、僕は羨ましかったし、ずっと一緒に遊びたい気持ちを抑えてきた。

 やりたいこととして、「音楽(バンド・ギター)をやりたい」「小説家になりたい」「特に目標はないが、大学に行きたい」等と彼等は言ってくる。

 ならば、そういう目標を立てて努力すれば良いのではないか?という僕の返しに、「家が貧しい」「そういう目標を立てたり努力出来る環境になかった」といった理由で、これ迄の自分は諦めるしかなかったと語る。

 それならば、これから働きながらお金を貯めて、そういう目標に向かえば良いのではないか?と僕は返すが、そうできない理由ばかり考えて返そうとする。

 そんなやり取りから、僕は面倒臭く思えてくる。

 僕個人が勝手に思ったことだけど、それは大学生になるという見映えと、もう暫く学生として遊びたい気持ちから来るものではないだろうか。

 僕もどこで耳にしたのか解らないけれど、誰かが「大学に入ってからも、一生懸命勉強している人なんかいないよ」なんて言っていたのを耳にする。

 彼等が見る僕は、これからそういう楽しい時間を過ごしながら、絵を学び、羨ましい立場になっていく存在なのかもしれない。

 

 高校時代の先生たちで、僕を知る先生たちは皆喜んでくれた。
 美術部でお世話になった平田先生も、僕の美術大学の合格は自分の事のように、周りへ自慢していた。

 ここから僕のやるべき事は明確だった。
美術大学へ入学して、絵の勉強を頑張ること。

 しかし、ここからまたひとつ、妙な噂を耳にする。

 美術部顧問の平田先生が、病気で長く生きられないというもの。

 平田先生自身は自分の病気の事を、直接会っている僕には全く話してこなかった。

 僕側も、そんなことが事実であるという確認が、どうにも恐くて出来ない。
 平田先生は普通に先生の仕事もしているし、きっと何かの間違いだろうと、僕は自分に何度も言い聞かせた。
 でも、もしも噂通りに病気で長くないのだとしたら、僕はどうするべきだろう…とも考えてはいた。

 その結論は、病気であろうと無かろうと、まずは絵を頑張ることが一番大事である。
 平田先生の自慢の教え子として、恥ずかしくない勉強をして、良い絵を1枚でも多く描くことこそ、平田先生へ出来る一番の恩返しだと考えた。
 平田先生だけではなく、母や予備校の先生たちや高校時代の先生たち、友人、何よりも自分の為にも、絵を頑張ることが大切だった。

 だから、僕は絵に対して頑張れば頑張った分だけ、自分の世界は切り開いていける様に考えていた。


 それからもうひとつ、平田先生の件とは別に、なかなか消せない心残りはあった。

 高文連で好きになった女性に、美術大学へ入学したことを伝えたかった。
でも、その女性に関わる事は諦めないといけない。
 判っては居るのだか、ずっと心残りとなる。

 その女性に会うことは、もう二度と無いだろう。

 それでもいつかは、彼女のイメージを絵に描き起こそうと、心のなかで思い続けていた。


 美術大学に入学したら、今まで以上に絵を頑張ろう。

 この頃までは、嫌な事や想いも、可能性への希望に転換出来ていた。

 

美大入学前

 美術大学へ入学する前まで、僕は基礎のおさらいをやっていた。

 よく言われる話で、美大・芸大に入学すると、大学の教員たちから「いつまでも、受験用の絵を引きずっていては困る」といった言葉を掛けられるという。

 そういう言葉をかけられた生徒は、自分がこれからどんな絵を描いていくべきなのかで、迷い悩むという。

 そういう流れのあるなかで、僕のこういう行為を良くないと考える人もいるだろう。

 でも、僕に関しては、浪人生活を送るずっと前から自分の絵のイメージは持っていた。
 自分の努力するべき方向も、何となくわかっていた。
 これは、独学で絵を描いてきた期間の長さと、高校の美術部顧問の先生の方針のお陰だったのかもしれない。

 それでも、自分の向かうべき方向の為に、僕はもう少し物を見つめる眼を養う必要がある様に感じていた。
 それは基礎範囲のものではあるが、受験用のデッサンや着色写生とは違うものだ。

 僕には、自身のなかに信じる絵の方向性は朧気ではあるが、確かにあった。

 美術大学へ入学することが決まってから、よく思ってしまう。

 もう一年早く、ここで絵画の基礎を学び始めていたら…

 あと一年、浪人生活を送れたなら…

 そんな考えが、僕のなかにはあった。

だから、試験が終わったあとも僕は予備校に通い、札幌で借りていた部屋を引き払うギリギリまで、自分なりのデッサンの研究・訓練を行っていた。