電話 No.40
僕は美術大学に入学してきたけれど、大学での人間関係や絵の勉強も、これまで書き綴ってきた様に、メチャクチャな状態にあった。
でも、このことを具体的に母へ話し始めたのは、半年以上経過した、それなりに月日が経過してからだった。
母へは、授業料の工面などで多大な迷惑をかけていたのだから、不必要に心配などをかけたくない気持ちが強かったからだ。
高校の美術部顧問だった平田先生にも、1年生の間に何度か電話をした。
最初は、美術大学では上手くやっている、といった嘘をついていた。
でも、大学を辞めようと考え始めた辺りで、少しだけ本当の話をした。
日本画の勉強は得体の知れないもので、少し困っている。
いつも意味合いの理解できない指示が出され、僕はその指示に対する質問をすることで、力不足の下手糞扱いを受ける。
しかし、後になってからその内容を知ると、日本画と洋画の様式の違いや、指示している側の偏った考え方や不備が目につく。
そんな僕を、同級生達はいつも馬鹿にしてくるのだが、僕が見上げる様な腕を持っている生徒は見当たらない。
教員達の指示や考え方さえ理解すれば、彼等と並び、追い抜ける位の絵を直ぐに描いてやる自信はあるのだが、その辺りで上手く行かない。
その事で、教員や同級生達との人間関係も上手くいかず、日増しに関係は悪くなっていっている。
これから少しでも意味のある勉強をする為にも、この美術大学は退学しようと思っている。
平田先生には、僕のこの話があまりに意外に思え、驚いていた。
平田先生は僕のことを可愛がってくれていたので、僕ののんびりした性格や、僕の画力のことなんかも把握していた。
その上で、沈んだ声でこう言っていた。
「お前みたいな奴でも、人間関係で困ったりするんだな」
「大学でのことは解らないけれど、大学は辞めないで、卒業だけでもした方がいい。
教授達の話なんかも、考えが合わないならあまり聞かなくていいんだよ。」
そんな会話を1度していた。
実は平田先生については、高校を卒業した少し後から悪い噂を耳にしていた。
病気によって、もう長くは生きられないのだという話。
僕にはどうしても受け入れたくない話で、電話では、平田先生の病気や余命等に触れることは1度もできなかった。
平田先生側も、自身の病気の話を、僕に直接話してくることはなかった。
そんな状態だから、僕には、美術大学での勉強は必死にやらなければならないと考えていた。
高校時代、平田先生は他校の美術の先生達へ「こいつ(僕のことを指して)、面白い絵を描くだろ?」
「こいつに絵を教えたのは俺なんだ」
等と自慢していた場面を、僕は何度か見ていた。
そんな平田先生の自慢の教え子として、僕は誰に見られても恥ずかしくない絵の勉強をする決心をして、美術大学へ入学していた。
死期の迫っている平田先生に対して、僕のできることはそれぐらいだ。
そういう認識を持っていた。
しかし、平田先生が亡くなるという事実を、僕は心のなかで受け入れられずにいた。
何かの間違いや大袈裟にした噂、そういう類いのものだと、そう信じようともしていた。
色々と思い悩むことは出てくるのだけれど、そう思うときはいつも、
「僕がいま出来ることは、絵を頑張ることだけ」
と自分に言い聞かせていた。
高校時代、平田先生とはこんな約束を交わした。
「僕はいつか、先生と肩を並べられるぐらいまで、色んな事を経験して学んでくるから、その時には一緒にお酒を飲みましょう。」
こんな会話を、平田先生は記憶に留めていなかったかもしれない。
約束なんか交わさなくても、そんな場面はすぐにやってくると思っていた筈だ。
病気の噂なんか、所詮は噂だろう。
余命半年という噂を聞いていたが、それから半年以上経っても、学校の先生の仕事を行っていた。
「先生が病気で亡くなる筈がない。」
僕は無意識の内、ずっとそう信じようとしていた。
母との電話の話に戻す。
一年時の年末年始の辺りで、大学を辞めたい気持ちをはじめて母へ話した。
でも、大学内での具体的な話は殆んど話さなかった。
僕はこの大学や教員たちとは噛み合わない。
いくら努力をしても、この大学では僕の学びたいことは殆んど学べない。
この程度なら、僕ひとりで絵の勉強をしていた方がずっとマシだ。
授業料は高いばかりで、お金(支払う学費)がもったいない。
これまでにかかったお金は、これから働いて少しずつでも全部返す。
だから、大学を辞めさせて欲しい。
この大学を辞める話に、母はとにかく反対した。
僕の家族は母子家庭で、その母はリサイクルショップの小さな店を経営していて、お店のお客さんや仕事仲間や、色んな人に僕が美大で学んでいる話をしている。
「そんな訳のわからないことで、美術大学大学を中退したなどとは恥ずかしくて話せない。」
「2年や3年生になれば、きっとあんたなんか皆に追い越されている。
自惚れるのもいい加減にしなさい。」
「その大学で学ぶことは無いと思っても、我慢して卒業だけはしなさい。」
何度も、母からそういう内容の注意を受けていた。
損得で考えれば、退学する方が僕や母にはずっと得に思える。
しかし、その理屈通りには生きていけないものだと感じながら、渋々と大学を続ける事にした。
渋々と大学を続ける半面。
僕は強い意思で美大への進学を希望してきたのに、美大へ入学したらすぐに辞めたいと言っている自分と、大学では殆ど学べることがなちない状態なのに、高い授業料を母に工面させていることに、ずっと申し訳ないとも思っていた。