伊東深水
僕は十代の頃、伊東深水(いとうしんすい)の絵が好きでした。
画学生の頃に、洋画ではなく日本画を選択したのも、この伊東深水の影響でした。
伊東深水 『ほたる』
絵のことをあまり知らない人でも、朝丘雪路のお父さん、といえばわかる人は居るかもしれません。
正しくは妾の娘さんだそうですが、それでも伊東深水は、朝丘雪路を娘として溺愛していたようです。
僕が伊東深水の絵を好きだったと言っても、当時は画集で見るばかりで、作品の実物を見たのは画学生になった二十歳前後の頃。
ただ、作品の実物を大規模な展示の『伊東深水展』というかたちで、作品をまとめて見る機会を得た頃には、僕の興味は他の画家や絵に向いていました。
そして、実物を見てからは、「僕の思っていた絵とは少し違っていた」という気持ちも湧いてきました。
それでも伊東深水の絵は、今も素晴らしいと思っています。
伊東深水は、十代の頃から評価を受けていたもので、その始まりは『指』という作品でした。
伊東深水『指』
この絵が1922(大正11)年の平和記念東京博覧会美術展で二等銀牌を受賞し、展示中は絶えず作品の前に人だかりがあったとのこと。
しかし、この時に師の鏑木清方から、絵の出品関係を自粛するように言われます。
僕の認識では、この艶っぽい絵の作り方と、そこに評判や評価が重なったことへの注意と思っていました。
最近読んだこのブログに書いてあることですが、
https://ameblo.jp/josh0916/entry-12147079237.html
『師匠の清方に「おめえんとこの若えのだが、ずいぶんと天狗になっているようじゃあねえか」的なたしなめのひと言を呈したのが川合玉堂で、清方も深水に自重を促したのでしょうかね…。』
こういった背景もあったのですね。
伊東深水が画家として活躍しているなかで、
などと言われるようにまでなっていくのですが。
当時、同じくらいの力量の画家がいても、伊東深水の絵は1~2段低く見られる傾向にあって、本人もそのことには悩んでいた、という話も聞いたことがあります。
伊東深水の話を聞いていると、僕は華やかな処しか耳にしていないので、なかなかそういうイメージと一致しないのでした。
伊東深水『鏡獅子』
この後にも、色々と書いていくつもりでしたが、記憶が曖昧なことや、文章が纏まらなかったりで、うまく書けませんでした。
ですので、この辺りで話は区切りとします(^_^;)
またいつか伊東深水のことを調べ直してから、続きを書こうか考えてみますね。