竹内栖鳳と横山大観
二十歳前後の頃、僕は竹内栖鳳という日本画画家の本等に多くを学びました。
なので僕の投稿には、竹内栖鳳の話が時折出てくると思います。
竹内栖鳳 観花 1898年
竹内栖鳳の生前は、画家の代表格として『東の横山大観、西の竹内栖鳳』等と言われたりもして、ファンの間からは横山大観と竹内栖鳳を対立して語られたりもしていました。
この二人ですが、わずかな期間、同じ教壇に立った事もありました。
日本の第一回の文化勲章も、竹内栖鳳と横山大観は供に受賞しています。
あくまでも僕の好みから言うと、竹内栖鳳は好きですが、横山大観はあまり好きではありません。
とはいっても、横山大観の絵のなかには、「凄い!」としか言えない素晴らしい絵も多くあります。
竹内栖鳳の絵でも、「これはちょっとなぁ…」と言ってしまう絵もあります。
それでも、作画への姿勢的なものが、僕の好みのなかには大きくあります。
竹内栖鳳と横山大観の生きた時代というのは、日本が次々と変化していく時代でした。
それまであった日本の絵画は廃れ、今なら国宝や重要文化財になるような作品が、二束三文で海外にながれていきます。
逆に、目新しい西洋絵画も、次々と日本へ入ってきます。
その時代に横山大観は、日本の古典絵画の復興に努めました。
竹内栖鳳は西洋に渡り、西洋文化を日本画に取り込み、色んな絵を描いていきました。
記録のなかで、日本画の勉強に石膏像を取り入れた(描いた)のは、竹内栖鳳が最初だそうです。
日本画の作画に、実際のモデルを使ったのも、記録上は、竹内栖鳳が最初だそうです。
色んなことをしてきた分、多くの批判や反感も受け、苦労もしてきた様です。
その上で、この二人の絵を見ていると、幾つか思ってしまうのです。
竹内栖鳳の絵は、描こうとする題材や情景や意図はストレートに思えます。
古典の勉強は人一倍していますが、その枠に納まらない絵を描こうと、努力している様にみえるのです。
横山大観の絵は、必ず何処かに古典の技が潜んでいて、古典の力を借りている様に見えます。
企画展などで時折見る横山大観の絵も、手抜きの様に見えてしまう場面が多々あります。
それでいて、今現在の画家・絵の評価は、横山大観の方が上になります。
横山大観 神国日本 1942年
とは言っても、評価には何かと要因はあるのです。
竹内栖鳳は、戦前に亡くなった画家です。
戦時中の戦意高揚画を描くよう、政府から圧力を受ける時代には、既に亡くなっていました。
1864年12月20日(元治元年11月22日)~1942年(昭和17年)8月23日)
横山大観は、戦後に亡くなった画家です。
戦時中は、桜や富士山を描いたと言われていています。
1868年11月2日(明治元年9月18日)~ 1958年(昭和33年)2月26日)
その戦時中(1941年~1945年)に、竹内栖鳳も生きて絵を描いていたなら、いまの評価も変わっていたのかもしれません。
今回の投稿内容は、20年くらい前に聞いた講演会等の影響を強く残していて、少しズルしちゃったかもしれませんね(^_^;)