絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

止まった時間2 No.118

虫垂炎

 今回も、急性腸炎の続きの話となる。

 30歳を過ぎて、今は一番頑張っていなければならない時期と思いつつ、思うような人生を歩めず、何もかたちにはならずにいた。

 当時に働いていた派遣会社では、派遣先の職場の都合やらで仕事や住まいなんかも失う。

 よくある話で、派遣先の会社でリコール問題やらのトラブルが起きて、生産減とかコスト削減といった話になると、当然のこととして、派遣従業員から切られていく。

 ずっと続く不景気だと言われていても、細かなことにこだわらなければ仕事自体は多くあるし、派遣会社は別の派遣先や住まいも用意はしてくれる。

 こんなのは、よくある話だった。

 

 この派遣切りを契機に、僕は新しい派遣先を紹介して貰うことはせず、アルバイトでもしながら暫くゆっくりすることを選ぶ。

 30歳を過ぎて、相変わらず絵は描けなくて、絵に関わった仕事に正社員で就くことも諦めたけれど、絵を描く行為は諦めてはいなかった。

 当時は、仲良くして貰っていた清美という女性がいて、このことを契機として、その清美の家での同棲生活を始めた。

 ただ、自分のやるべきことに手をつけていない僕には、清美と結婚して安定した生活を送っていく、といった考えは全く持てなかった。

 逆に清美の側は、年齢の関係からも結婚に焦り急かしてくる、そんな関係だった。

 

 ある日、何度も繰り返していた急性腸炎腹と同じ痛みが始まる。

『きっと、また急性腸炎だろう』

 そう考えて、痛みを堪えられる内に病院へ向かい、処置してもらう。

 本当に酷くなる前に処置して貰った為、今回はそれほど苦しむことなく終わった。

 処置して貰った時は、痛みが進行しないことから、回復していると思い込んでいた。
…そう思っていたのだが、翌日になっても、病院へ行ったくらいの痛みのままで回復していかない。

 痛みを堪えながら、当時やっていた画材屋の職場(アルバイト)へ出勤する。
 翌日も翌日も、腹痛は回復しない。

 様子がおかしいと思いながら病院へ行き、
「急性腸炎だと思うのですが、前回治療してもらっても回復しません」
と伝え、治療してもらう。

 病院への通院を3~4回繰り返して、よくやく急性腸炎ではなく虫垂炎だったという話になる。

 僕がお医者さんに「急性腸炎だと思う」と伝えていたのが、誤解の種を作っていたのだろう。

 直ぐに入院し、発見が遅かった関係から、翌朝には手術をしなければならないという説明を受けて、これまでの診察では誤診を受けていたことに気付く。

 お医者さんからの説明では、虫垂炎というのは、場所違いの盲腸だと教わった。
 本来は手術をする前に、薬によって改善出来るかを試すのだが、僕の場合はそんな時期はとっくに過ぎ去っている。
 その為に急ではあるが、翌朝に直ぐ手術を行うこととなった。

 いつもの急性腸炎の痛みと比べると、今回はそれ程でもない為に軽く考えていたが、今回の方が状況は酷かったのだ。


 それから、着替えや月々の支払い関係の事で、清美へお願いの電話をした。

 少ししてから清美は病院にやってきて、着替えや支払いのお願いは聞いてくれたのだが、泣きながら別れ話を切り出してきた。

 清美からの話では、
『(僕側は)いつもひとりで何かに悩み苦しんでいて、毎日一緒に居るのに、1度もそのことを私に話してくれない。
そうやって、あなたがいつもひとりで我慢して苦しんでいるのを毎日見ているのが辛い。
何かに悩んでいるのなら、付き合っている私に少しぐらい話して欲しい。
そんなことさえもしてくれないのなら、もう別れたい。』

 過去の事やイライラ等、自分では隠しているつもりでも、隠せてなんかいなかった様だ。

 清美のそんな話に僕は驚き、過去のことを話そうか悩む。

 僕は何度も話そうか考えるものの、話すようなこととは思えず、その場では「その内話すよ」と発言するだけに留めていた。

 退院後に数回、清美から『きちんと話して』迫られることもあった。
 でも、僕は清美に何ひとつ説明することはせず、そのまま別れることとなった。

 心配してくれている清美に、何も話さない僕は酷いのかも知れない。

 でも、後から知った事実として、清美は僕と同棲を始めた辺りからは別に好きな男もいて、深い関係にもなって連絡を取り合っていた。

 そういう事実を知って、僕はほんの少しだけ気落ちする。

 最初から、僕は本来向かうべき道に向かってない感覚を持っていて、清美とこうなることは必然だったようにも感じていた。

 勿論、こんな生き方をしている僕が悪いのだけど、どっちもどっちという感じもあった。

 清美の浮気のことを知ることで、申し訳ない気持ちや 、別れる際に清美へ残す心も薄まっていたりで、これでよかったのだとも思えていた。

 

 虫垂炎の手術を終えてから目が覚める前に、昔に見た悪夢のひとつを、再び見る。

 あれは美術大学を卒業する前後、テレビに見た事件映像の記憶と、寝ている時の夢とが混じりあったものだった。

 その事件というのは、コロンバイン銃乱射事というもの。

コロンバイン高校銃乱射事件 - Wikipedia

 アメリカのコロンバイン高校で起きた事件で、生徒である人物が、生徒や教員等を無差別に銃で撃った事件である。

 銃を向けた対象が無差別であった理由を、当時の犯人の友人は、後にネットで「特定の誰かを撃ちたかったのではなく、あの環境を壊したかったのだ」と語っている。

 高校内では、苛めやそれに絡んだ上下関係の様なものが強くあり、そういうものを知りつつ黙認する生徒達と、それを隠して何事も無いように取り繕う教員達。

 そして、この事件が行われる前に、学校の生徒から地元の警察へ、何度かの通報(学校内での暴力が行われている場面や、後に犯人となる少年が銃を入手している等の話)は行なわれていながら、その通報の事実は警察と学校とのやりとりの末に揉み消されて、悪い状況は維持されるばかりで変わらない。

 犯人の少年はこの環境を壊したくて、最後には、学校にいる人達を銃で撃つ処へ行き着いてしまった。

 もっと細かな話を知りたい人は、リンク先へ行くなり、ネット検索するなりして欲しい。

 僕は、美術大学にいた頃や、虫垂炎で入院した時も、まだこの事件の内容を知らずにいた。

 それでも夢のなかでは、その事件の犯人と僕の存在を不思議と重ねていた。

 夢の中では。

 大学の同級生や教員達を、僕は銃で撃って命を奪った後の場面から夢は始まり、多くの命を奪ったことから、僕は自分の命を絶つしかないと考え、銃を自分の顔に向けて引き金を引こうとする…

 そうして目が覚める。

 目が覚めると、鼻や口にチューブが通されていた。
 そして、下腹部にも穴を開けられていて、そこからもチューブが通されている。

 目が覚めた直後である為に、数秒だけ、夢のなかの出来事と繋がるものと誤解し、混乱する。

 それから少しの期間、僕の考えは危険な方向に向かっていて、そのことへ歯止めする意識は非常に弱くなっていた。

 それは、手術やその為の麻酔が、そうさせていたのかもしれない。

 

 簡単に内容を言ってしまえば、
美術大学の教員達の命を奪いに行くべきなのではないか』
等と考えていた。

 そもそもは美術大学に在籍していた辺りで、僕はしっかりと証拠を残して裁判を起こすべきだった。

 裁判を起こし、事実問題をはっきりさせ、その上での話し合いをやるべきだった。

 そこまでしなければ、前向きな会話さえ出来なかったからだ。

 彼等の立場とか、大学の評判(その結果で大学が潰れる)とか、誰かがくびをくくらなければならなくなる(洋画のM先生が言っていたように)とか…
 被害者側である僕がそんなことを気にして、誰かを追い詰める様なことを避けてきたから、被害者側である僕や僕の母がくびをくくらなければ…等という話や考えにもなっていた。

 あれから、もう10年近い月日は流れているのに、僕の心はあの時期の事に囚われ続けていて、何も前進していないことを実感する。

 これから先の10年も、きっと僕は同じ気持ちのまま過ごしていくだろう。

 でも、もし10年前に美術大学の教員達を、僕がこの手であやめていたなら、そこから10年経過した今の気持ちは大きく違っていただろう。
 それでも、結果として刑務所のなかに居たとしても、今も持ち続けているこんな気持ちよりかは、少しはマシな気持ちで過ごしていたのではないだろうか。

  彼等に対する怨みや妬みや怒りなどは、この10年で薄れる事はなかった。
 逆にここ何年かでは、恨みも妬みも怒りも強くなってきている。


 人の社会のなかの常識として、他人の命を奪う行為というのは許されることではない。

 でもそれは、整備された社会の秩序や人どうしが共存していく兼ね合いで作られたルールだ。

 自分や家族の命の危機を感じているとき、その危機を作っている者を排除しようとする考え方も、生きる者として当然の考えだと思う。

 そこには、法律と折り合わない部分も多々起きるかもしれない。

 特に、美術大学の教員達は僕に対して行ってきた行為に対して、こういう言い訳をしてきた。
「あの時は腹が立ったから仕方がなかった」
「私達だって腹が立つことぐらいある」
「人は感情を持った動物だから…」

 そういう言い訳をしながら、僕の交友関係を絶ち、生徒として学ぶ為の場所や機会を奪い、他の生徒達には教えない様なデタラメなことばかりを教え、卒業後の様々な可能性までもを潰してきた。

 勿論、そういうことをされてきた僕だって人間だ。
 彼等が言っている何十倍も腹を立て、ずっと理不尽な思いもして、それでも我慢しながら話し合いを求めてきたではないか。

 腹を立てたからといって、感情のままに相手を陥れたり制裁を加えるのが、文明や文化を持った人間のやることではない。
 美術大学に通う当時の僕は、そう思ってきた。

 そういう事柄も、もう10年も前のことであり、今更何かをどうにか出来るものではない。

 これまでの10年や、これから先も続く人生のなかでの苦痛を考えると、彼等の命を奪いにいく事こそ、総合的には最善の行動ではなかろうか。

 

 この時も、何度もある教員の発言が頭を過り、その都度、頭に血が昇っていく。
『いつまでも過去のことを根に持って、性格がしつこい』

 『それは過去の話じゃないか』
 過去と言われても、何等かの善処や解決が行われた事柄ではなく、問題も被害も継続しているなかで、時間だけが経過したことで『過去』と言い張り、第三者への誤解を誘っている言葉だった。

 被害者のこちらにしてみれば、最低でも被害が止まらない限りは『過去の話』などにはならない。

 その者は、そこからも僕を生徒として扱うことはなく、他の科の教員達へ嘘による辻褄合わせの話を語り続け、僕にかかり続けている被害を止めようとする意識さえも持たなかった。

 そんな状況下で「いつまでも過去のことを…」と責められ続けたあの時のことが、10年近く経過したこの時も頭に残り、怒りを増幅させている。

 この10年、絵を描けずに思うような仕事にも就けず、空まわりして苦しんできたことが、怒りの気持ちに繋がっている。

 いま繋がれているこのチューブを外し、今からでもあの美術大学行き、教員達の命をとりに行くべきではないだろうか。

 うまく体の動かない今の僕の状態ならば、返り討ちに合う可能性の方が高いだろう。

 でも、その返り討ちで僕の命が終える方が、この社会にとってはプラスであったり、喜ばしく感じる者は多いのだろう…

 自分の思考がおかしいのは理解していた。

 いつもならかなり早い段階で、こんな考え方をしてはいけないと歯止めをかける。

 しかし、この時ばかりは、その歯止めにしている考え方自体がおかしいのではないか、その考え方こそ、自身を不幸にしているのではないか、という違和感を感じる。

 たぶん、こんな考え方をしているのは今だけだろう。
 体調ももう少し回復すれば、またこれ迄通りの考え方と生活が戻ってくる筈だ。

 いま思っているこの気持ちも、数日後には「あの時はどうかしていた」と思い直すだろう。

 そう考えようとしても、「だからこそ、今この時に動くべきなんだ」という考えが湧いてくる。

『今やらなかったら、この先は永遠に機会を失うぞ。

そうしたら、この苦しみはタヒぬ時まで続くぞ。』

 そんな考えに、入院中はずっと煽られていた。

 手術を受ける直前まで、僕はそんな考え方を持たなかったではないか…

 そんな不思議な思考で、入院していた一週間を過ごしていた。

 結局、僕は自身を抑えておかしな行動を起こすこともなかった。

 それで良かったのだと思う。

 

 退院して体調が少し良くなってくると、やはり考え方も以前の様に落ち着いてはくる。

 それでも、大学での事や病気の事を含めて毎日考えてしまう。

 急性腸炎虫垂炎は、僕がいつも沈んだ考えを持っているから起こしたストレス性のものだろうか。

 それとも、急性腸炎虫垂炎という体調不良が、こんな沈んだ考え方を加速させていたのだろうか。

 或は体調と考え方なんか無関係で、どんな考えや言動をとっていたとしても起こってしまう、たまたまの病気だったのだろうか。

 僕の抱えている問題の極論は、僕自身が絵を描きさえすれば良いだけのことだ。

 でも、そんなことは随分前から自覚していて、それが出来ずに燻っていることでもある。

 やはり、僕は絵を描くことでしか、未来を切り開いてはいけないのかもしれない。

 

虫垂炎を起こす直前。

 僕は、画学生の頃にご飯をねだりに来ていた猫の割田さんのことを描いていた。

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夜桜(日本画絵具)

 美術大学を卒業して部屋を引き払う時に、僕はこの猫を京都の住まいへ連れていこうか迷っていた。

 これから先の僕の人生や生活は、どうなるかわからなくて、何処かでのたれしぬのかもしれない。

 良い方向へ向かうような考えさえも、持てずにいた。

 こんな僕の側にいるよりも、割田さん(猫)はこのアパートまわりを住処としていれば、近所のみんなに可愛がられてご飯の心配もない。

 だから割田さん(猫)のことは、連れていかない方が良いのだろう。

 僕は猫の割田さんには、こう伝えた。

「お前のことを、連れていってやれなくてごめんな。
そして、いつかお前のことを絵に描かせてね。」

 そんな思い出の猫だった。

 あの時、僕が割田さん(猫)を連れていって、割田さん(猫)との生活の為にと、頑張っていれたのなら、僕はもう少し良い心境や人生を歩いていたのかもしれない。

 そんな後悔ばかりの日常のなかで、この絵は描いたものだった。