リーマンショックと派遣切り No.119
再び自動車工場へ
清美との同棲生活を終えてから、また派遣会社を利用して工場で働くこととした。
昨年くらいに話題になった、ドーンとかゴーンとかいう感じの人の経営関連で話題になった、あの自動車会社の工場が派遣先だった。
タイトルとこの書き出しで、この話の大体の結末は予想できると思う。
派遣会社を利用して工場勤務をすると、大くは3ヶ月単位で、働く上での契約期間が儲けられる。
その期間満了前に、更新するか辞めるかの選択を迫られるが、大体は更新する前提で話は進む。
それから、工場での仕事が半年くらい経過して、派遣先の職長から「派遣ではなく、工場と直接の雇用契約しない?」という誘いを受けてた。
同じ仕事をしていても、派遣よりも工場から直接の(期間)契約をした方が待遇も良かったもので、職長からもそういう誘いを出してくれていた。
そのことで、派遣会社との契約期間を終えてから、工場との契約へと切り替える話を進めていたのだが…
丁度その頃、リーマンショックの話が世間的にも話題になっていた。
リーマンショックというのは、リーマン・ブラザーズというアメリカの投資銀行の破綻により、世界的な金融危機を起こしたもの。
このリーマンショックの噂は、この頃の僕の耳にも届いてはいたものの、僕はそのリーマンショックを楽観視していた。
工場との直接の契約は、このままいけば無理だろうとも考えてはいたけれど。
過去に働いていた自動車工場で、リコール問題や不況等の話はよく話題に持ち上がっていても、殆どの場面でどうにかなっていた。
(これまで、解雇まで話が進むのも稀であった。職場を解雇されても、他の仕事を紹介して貰うことで、新しい仕事に就くことはできた。)
だから「たぶん今回も、どうにかなるだろう」という楽観視をしていた。
そう思っている内に、『派遣切り』や『派遣村』といった噂やテレビの報道を、会社や寮のテレビを通して知っていく。
近場の駅付近でも、派遣会社との契約を打ち切られて転職も出来ず、職を失い困っているそれらしい人達(ホームレス)を何人も見掛ける。
これは自分も危ないかもしれない…等と思った頃には、自分も他人事ではなくなっていた。
派遣先の工場からの説明では、この時点(過去)で注文を受けている分の自動車を普通に製造してはいる。
しかし、その注文分はもうすぐ終わってしまい、その後は工場を閉鎖しなければならず、同じ敷地内の別の製造場所では、既に閉鎖してしまった作業場もある。
いま計画している分の製造を終えたら、それで工場は閉鎖するし、それで派遣や期間工の雇用は終了だという。
勿論、派遣会社の方も紹介出来る職場は無くなっていて、いま仕事に溢れている人(僕など)への対応は出来ない。
前もって契約期間で契約を終える手続きをした僕は、正確には派遣切りにあった訳ではなかった。
少しの違いだが、生産計画分の製造を終えるまで工場に残っていた派遣従業員は派遣切りされた者となる。
この違いは、失業給付を受ける手続き時に影響をした。
(とはいっても、僕もその細部までは把握していないのだが。)
実際に僕がハローワークへ手続きに行った時に、僕は「派遣切りではない」と最初に説明しているのだが、派遣切りとして扱われて話が進む。
住まいを失っている人には、一般よりも安い賃料で住まいが借りられるよう、政府の財源からの斡旋があると言う。
(しかし、この頃にはその対象者も多過ぎて、住まい関係に関しては対応できていない実情もあった。)
他にも、失業給付支給までの待機期間の短縮や、生活が困窮した時にはお金も借りられる、という制度関係の説明等を受けた。
その説明を受けた後で、ハローワーク側で細かく調べてみたら、やはり僕は派遣切りではないので、僕はそれ等の対象にはならないと改めて説明される。
住まいを失ったのに、失業給付を受けるには住まいがある前提となっている。
その為、住まい(住所)とした所は古くからの友人に許可を貰い、友人宅に住んでいることにして貰った。
でも実際には、インターネットカフェや24時間経営の飲食店等で寒い夜を過ごしたり、浪費を抑えようと公園で過ごす日もあったり、そんな感じだった。
住民票上の住所に関しては、引き払った自動車工場の寮となっていて、リーマンショック時に政府から支払われたという現金給付に関しても、僕の手元に書類なんかは届かず、その情報も知らないまま受けとれずに終わっている。
当時のテレビの報道では、派遣切りされた人達へのインタビューや(派遣切りされた人の集まる)派遣村の様子を、毎日報道していた。
こういう立場にあるのだから、そういう場所に集まった方が、支援や情報等も集まる訳だけど、僕はそんな晒し者になりたくないと考え、話題の派遣村に自分も行こうとは考えなかった。
実家に帰って、時期をおいて生活を建て直したらよい、という選択肢もあったけれど、それを選ぶことはしなかった。
C型肝炎の女の子
清美と同棲するよりも数年前から、インターネット上で雑談のやり取りをする特定の人が何人かいた。
時代的なもので、僕が大学生の頃は、携帯電話は電話しか出来なかった。
当時はメール機能もなくて、その代わりにポケットベル(無線呼び出し)というものが、今時のメールのような存在だった。
それから、iモードというドコモの提供するインターネットが携帯電話でも利用できるようになる。
携帯電話でのインターネット上のやり取りも、文章だけだったのが画像のやり取りも出来るようになっていった。
桜と猫(日本画絵具)
そういう流れから、僕もiモード上で、何人かの集まりで会話をするのが日課になっていた。
そのやり取りのなかで、僕の描いた絵を見せたりもしていた。
そのいつもの会話をする面子のなかに、 ひなちゃんという女の子がいた。
そのひなちゃんは生まれた時からのC型肝炎に感染していて、お医者さん等からは、長くは生きられないだろうと言われながら大学生になっていた。
元々は、ひなちゃんのお母さんがC型肝炎である状態でひなちゃんを妊娠し、ひなちゃんを生まれながらのC型肝炎にしてしまった。
そのひなちゃんのお母さんが亡くなりつつある時、ひなちゃんは、僕の絵を見ていると嫌なことも忘れられる、僕の絵が好きだ、と言ってくれた。
ひなちゃんは絵の事など興味なく、どこかで絵を見掛けても何もわからない。
でも、僕の絵に関しては面白いと感じる。
僕の絵を見ている時は、嫌なことを忘れられる。
何度かそう言ってくれていた。
木陰の親子(水彩絵具)
お世辞と理解してはいても、その言葉はとても嬉しかった。
こんな僕の絵で、気持ちや寂しい気持ちが少しでも紛れるなら、幾らでも絵を描いて見せてあげたいと思っていた。
そんなひなちゃんの言葉があったから、このリーマンショックの時でも時期を待とうとは考えず、絵を描く環境をすぐに整えていきたかった。
絵を頑張る為には、まず働き場所や住まいを確保しなければ。
それまでは、正社員となることに躊躇したり、接客業を避けるなどもしてきたけれど、選んでられる状況ではない。
とにかく何でもいいから、取り敢えずやれる(就ける)仕事はやってみよう。
ここからの話は、また色々と兼ね合いもあり、少し細かく書いていくことになる。