絵と猫とぐだぐだ ~髙木元就

雑記ブログです。趣味で絵を描いています。漫画やイラストなども含めて、幅広く絵の好きな人に読んで貰いたいです。

テッポウユリ1 No.14

テッポウユリの写生

 美大の最初の課題はテッポウユリで、写生からはじまり、写生を元にした日本画の細密描写へという流れで進む。

 まだユリがつぼみの状態でモチーフを渡され、それをスケッチブックに写生する。

 花が咲くのを待ちながら、写生と同時に、日本画の制作行程を教わる。

 その写生の途中で「光が当たった結果現れるものは一切描かないでください」という話が出てきて、僕はその言葉に小さな疑問を持つ。

 僕は美術大学へ入学する以前から、「日本画には影はない」という言葉を知っていた。

 しかし、「光が当たった結果現れるものは一切描かない」という話となると、少し違っている様にも思える。

 

 細かな話をすると。

 洋画や彫刻やデザインを含めた西洋絵画で、基礎訓練の始まりでは、光や影の話が出てくる。

 デッサンなどで、モチーフに当たった光や影を見て、形や質感などを感じ取る訓練を行う。

 物や色がその存在を現すには光が必要で、その物に光が当たり、その光を吸収したり反射したりするからこそ、その物の形や色は視覚的に現れる。

 これが、西洋絵画~絵画の基礎のなかでも初歩の話なのだ。

 洋画と日本画とでは、文化や精神の違いがあり、その立ち位置は違うという人は居るけれど…そんな理屈で、少なくとも僕は納得しない。

 光を捉えて描く訓練は、西洋絵画の基礎だと述べたとしても、日本画では素描という言葉を使いながらもデッサンを行う。

 デッサンや素描というものは、元々は日本画には無かったものであり、時代の流れのなかで日本に入ってきた概念だ。

 素描で使う鉛筆も、便利なものだからと、西洋から取り込んだ道具である。

 多くの美大や芸大の受験のなかでは、デッサンを入試の科目に設けている。

 そこで日本画のデッサンだけは特殊かといえば、そんなことはない。

 日本画であっても、洋画や彫刻やデザインと根本的な部分は同じものを、受験者に求めている。

 そねか根本的な部分こそ、絵画の基礎だ。

 そういう考え方が僕のなかにある為、「光が当たった結果現れるものは一切描かない」という言葉を額面通りに受け取ろうとすると、絵画についての話として成立しない。

 

 日本画の世界では多々あることなのだけれど。

 日本画を描く者は、西洋絵画を「あれは合理性の絵画だ」と否定し、日本画では抽象的ないいまわしで説明を完結させようとする場面も多い。

 その抽象的な言葉のなかに、多くの情報を含めていることも多いので、それを僕は否定するつもりもない。

 だから、この「光が当たった結果現れるものは一切描かない」という言葉も抽象性を含んでいて、その言葉のままではないのだろう。

 ならば「光が当たった結果現れるもの」とは、どこまでの内容を指しているのだろうか、という疑問を僕は持つ。

 

 美術大学に入学した最初の辺りから、K先生(男子)は何度も繰り返し『少しでも疑問に思ったり、わからないことがあったら、何度でもわかるまで質問に来なさい』と、生徒に話していた。

 そういう背景もあり、最初の授業が始まってから1~2週間くらいで、僕は教員達のいる研究室(日本画教員の職員室)へ行き、K先生(女子)の名を指名しながら質問を持ちかける。

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【純潔のテッポウユリ】花言葉と育て方!種まきの時期や方法は? - HORTI 〜ホルティ〜 by GreenSnap

 僕は研究室へ行き、その問題の言葉を発した本人であるK先生(女子)を名指しで質問を持ちかけるのだが、いつも対応するのは、二年生の担当教員であるS先生と、一年生の担当教員であるA先生(女子)であった。

 僕側から何度もK先生(女子)を求めても、なぜか取り次いでくれることはなく、S先生とA先生(女子)とで対応しようとする。

 それでいて、この二人の先生とも「光が当たった結果現れるもの…」という僕の質問をいつもはぐらかしていく。

 ザックリと言ってしまうと「そんなことはイチイチ意識しなくてもいい」「高木君の言ってきている質問は、どうでもいいことだよ」と片付けながら、S先生とA先生(女子)なりの絵の描きかたを押し付けてくる。

 それならば、K先生(女子)の語っている『光が当たった結果現れるものは…』という言葉は無視して考えなさい、ということなのですね?と聞いても、そうではないという。

 このやり取りで、最初の小さな疑問は次第に大きな疑問になっていく。

 

 S先生やA先生(女子)も、日本画の影や光の話への認識はしっかりしていなくて、返答できない。

 同時に、その言葉や、その言葉を口にしているK先生(女子)のことを否定できず、話をぼかして誤魔化そうとしていたのだろう。

 そんな状況に納得せず、僕は日を改めながら、何度も質問を繰り返してくる。

 教員としての立場や見栄等による都合で、K先生(女子)に話をまわすことは出来ず、自分( S先生やA先生(女子))等で僕の対処を終わらせようとしていた。

 日本画の影や光の問題は、S先生やA先生(女子)にとってはどうでもよい問題で、これ迄に気にも止めていなかったのだろう。

 その立場で説明をはぐらかし、質問を閉じようとするが、僕は質問を繰り返す。

 そもそもの話をすると、僕は最初からK先生(女子)から話を聞きたいと求めていた。

  S先生やA先生(女子)側は、最初はK先生(女子)に手間をとらせない様に、自分等で対処する考えであったのかもしれない。

 でも、最初から最後(卒業)まで、 S先生もA先生(女子)も、話をはぐらかすばかりで、僕の質問内容には答えていないのだ。

 当時の僕は納得せず、同じ質問内容でK先生(女子)の返答を求める。

 聞き分けのない僕に対して、 S先生とA先生(女子)は怒りだし、いつからか『高木君には、何を言っても理解は出来ない』とか『本来、この大学へ入学してくる迄に身に付けていなければならない力を、高木君は持っていないんだ』と口にする。

 僕はK先生(女子)へ質問を持ち掛けているのに、僕をK先生(女子)には取り次がないことを徹底してしまう。

 それでも、僕は質問を繰り返す。

 入学した直後から、K先生(教授・男子)は『少しでもわからない事があったら、何度でもわかるまで聞きにきなさい』と生徒に語っていた。

 理屈からも、間違ったことをしているのは S先生とA先生(女子)なのだが、それを認める事も出来ないでいた。

 S先生もA先生(女子)は、この様な内容を語り意見する僕が憎たらしく、『高木は人の話を聞かない』とか『言うことを聞かない』という言葉に僕を当て嵌めてしまう。

 

 こんなやり取りを、大学の最初の課題で、まだ日本画の絵具を触るか触らないかの辺りで始めていた。

 この頃というのは、殆んどの生徒が、まだ座席近くの生徒としか会話をしていない時期である。

 この時期から既に、悪乗りする生徒は、僕と教員達との険悪なやり取りに反応している。

「あいつ(高木)はまぐれで大学を受かった奴だ」

「高木とだけは、関わりたくない」

「高木には近寄らない方がいい」

 こんな言葉が、大学の生徒間では毎日飛び交うようになっていて、このわだかまりは時間の経過と共に拡大していくだけだった。

 

日本画の傾向や趣向の違い

 ここからの話は、当時の僕では殆ど把握や理解をしていなくて、少し後になって考えてみれば、という意味合いの話になる。

 

 S先生とA先生(女子)が、僕をK先生(女子)に取り次がない理由らしきものに、日本画に対する考え方や趣向の違い等もあった。

 この美術大学日本画教員は、殆どを日展という美術団体に所属している人達で固めている。

 そのなかで一人、K先生(女子)だけは院展に所属している人物である。

 あくまでも傾向ということで書いておくが、この院展に関しては、古典絵画の勉強をよくする傾向にある。

 それ以外の美術団体に関しては、古典への意識は薄く、洋画と日本画との違いなどをあまり考えていない傾向にある。

 こういう部分で、日本画に対する考え方の違いが大きくある。

 僕の件でいえば。

 S先生とA先生(女子)にしてみれば、日展で成果を上げている自分等の描きかたこそを、大学の生徒達が見習い、学ぶべきものだと、実際にS先生は僕に語る。

(そう語るのは、2年生になってからではあるが。)

 

 『自由』とか『好きな絵を描いて良い』等と教員側が語っていても、それは建前であって、教員達の好むような絵に向かわない生徒というのは、まじめに絵に取り組んでいない生徒と見なされる。

 K先生(女子)は非常勤講師という立場にあって、教員のなかで一人だけ院展に所属している。

 日展院展との違いもあり、K先生(女子)の教える日本画の基礎と、S先生やA先生(女子)が生徒に描かせようとする絵とは、同じ日本画であっても大きく違うものだった。

 S先生とA先生(女子)の考えが浅いこともあり、日本画の基礎をK先生(女子)に教えさせながらも、本音の処ではK先生(女子)の教える日本画を否定していた。

 

 教員間では様々な兼ね合いがあって、正規教員で助教授の立場にあるS先生とA先生(女子)であっても、非正規で非常勤講師のK先生(女子)の立場を上の立場であるように立てていて、傍目にも上下の関係が複雑になっている。

 S先生とA先生(女子)に関しては、絵に対する考え方はかなり近くあるのだが、K先生(女子)とは大きく違っている。

 他の教員とS先生とA先生(女子)とでは、考え方は近いように僕は思うのだが、S先生とA先生(女子)の語る内容からは、考えはまた違っているそうだ。

 それでいて、言葉の上では、

『違ったことを言っているように聞こえるかもしれませんが、実は(教員達はみんな)同じことを教えているのですよ』

 と語る。

 そう語っている為、その考えや趣向の違いを、S先生とA先生(女子)はK先生(女子)に向かって言えず、K先生(女子)の前ではいつも言葉尻を合わせてしまう。

 それでいて、K先生(女子)のいない場面となれば、生徒に対しては自身等の考えに合わせるように求めてしまう傾向にある。

 僕の視点から考えると、教員間で考え方が違うなら、自分は他の先生達と違った考え方を持っていると、はっきりと語った上で共存するべきだと思うのだが、教員達のよくわからない都合上でそれが出来ない。

 だから、僕からK先生(女子)に向けた質問をしているのに、S先生とA先生(女子)はK先生(女子)の代弁をして僕の質問に答えているのに、結局はK先生(女子)の考えや指導の内容を否定し、僕の質問する行為や考え方や基礎技術までもを否定してしまう。

 そういった様々な矛盾を、僕は美術大学へ入学した最初の月から漠然と感じ取り「具体的な何かはわからないけれど、確実に何かがおかしい」と口にし始める。

 まわりの生徒や教員達は、僕のこの発言や考えや存在こそおかしいと語っていたけれど。

 僕には、この状況に何の疑問や違和感を感じない同級生や教員達に対しても、おかしいのではないかと疑問を感じていた。

 そう思いながら、僕が理屈ぽく考えすぎなのだろう、という思い直しなんかをして、いつも迷っていた。

 

絵画の基礎と、日本画の基礎?

 特にS先生は、この頃の僕に対して『基礎が出来ていない』と指摘し、細かな話はそれで省こうとしていた。

 この話に合わせて、A先生(女子)も『本来、この大学へ入学してくる迄に身に付けていなければならない力を、高木君は持っていない』と語り始めていた。

 僕には、この大学の入試をトップで通過したという自負を持っていたし、デッサンや着色写生といった『絵画の基礎』という部分に関しても、同級生の誰かに劣っているとも考えていなかった。

 ただ、僕はこの美術大学へ入学してくる迄に、日本画を教える先生や作家に接したことはなかった。

 洋画や彫刻やデザインの先生には、絵画の基礎について学んできたし、入試前に、有名大学の何人かの先生にデッサン等を見て貰い『基礎は出来ているから、自分の腕に自信を持っていい』と言って貰えた場面もあった。

 そのことから、僕が劣っているのは『絵画の基礎』という考え方が出来なかった。

 僕に考えられるのは、 S先生とA先生(女子)とで時々語る『日本画を学ぶ上で必要な基礎』『日本画の基礎』という得体の知れないものだ。

 

 日本画の大学入試で求められるものは、どこの大学であっても、絵画の基礎である。

 素描や着色写生といっても、元々は西洋絵画の形式や考え方から、日本画に取り込んだものだ。

 その西洋絵画から取り込んだ基礎としているものを、日本画でも洋画でも、絵画の基礎としている。

 それとはまた別に、大学へ入学する迄に身に付けていなければならなかったものがあると、S先生やA先生(女子)は語る。

 その『日本画を学ぶ上で必要な基礎』というものが、同級生の全員には身に付いていて、僕だけが身に付いていない、という。

 当時の僕は、それを教えてくださいと求めるが、 S先生とA先生(女子)は『今の高木君には、幾ら説明しても理解は出来ない』といって、それをいつまでもはぐらかしていく。

 

 当時の僕には、これが何なのか全くわからなかった。

 同級生の半分以上は、日本画の絵具さえ触ったことのない生徒達で、そういう生徒で、(僕の視点から)絵画の基礎がきちんと出来ていない生徒達であっても、それはきちんと身に付いているのだという。

 この得体の知れない『日本画を学ぶ上で必要な基礎』『日本画の基礎』とは何なのか。

 今現在の僕の視点から語ると、 S先生とA先生(女子)による詭弁である。

 或いは、僕に対して『絵画の基礎を身に付けていない』と指摘している過程で、話が変な方向に行ってしまい、その変な話のまま変に話を押し通しただけだろう。

 

 日本画を描く上で、絵具の溶き方や塗り方、画用紙(麻紙)の扱いなど、色々と学ぶことはあり、それを本当は日本画の基礎と呼んでいたのだと思う。

 特にS先生は、そういうものと絵画の基礎とを混同しながら『基礎が出来ていない』と生徒に指摘するだけで、細かな説明を省き、その基礎を教えようともしない場面が、僕以外の生徒にも時々行う。

(この行為をS先生はよくやる傾向にある、という話は、後々に彫刻のI先生からも聞いた)

 

 画学生の頃の僕は、授業で教員達とやり取りするだけではなく、展覧会等で教員達の絵を見たりして、技術や考え方を探ったりもする。

 それ等の経験から、今の僕が勝手に言っているだけの話だが~

  S先生や先生(女子)も、絵画の基礎については、それほど頑張ってきた人ではなかったと思っている。

 だから、絵画の基礎ではない S先生やA先生(女子)なりのやりやすい描き方を基礎だと語り、僕の考えや描き方を否定し、描き方の強要を始めていく。

 当時の僕は、大学助教授という立場にまであるこの先生達が、そんな愚かなことをしているの筈はないと信じようとしていた。

 でも実際にそういうことをしていくばかりで、そこから嘘の上塗りなんかもしていくもので、状況は次第に複雑になっていく。

 

絵を壊す

 僕の描きかたこそが正しかったとか、僕の描きかたこそが基礎だとか、そういう意味合いで語っている訳ではないのだけれど。

 着色写生等と言われると、僕はそのモチーフから感じた形や色や質感を描きとろうとする。

 例えば白い花であっても、白のなかには黄色味や緑がかった処もあれば、青味がかった影を作っていたり、花の厚みや薄さから見てとれる色もある。

 そういうものをしっかりと感じ取り、計画的に色を塗り重ねて絵を描く。

 それでいて、完成時にモチーフの色がうまく出せていない・うまく描けていないというのは、それはモチーフをしっかり見れていない・色を探せていない、と考える。

 そういう描き方で、写生等の課題制作をしていた。

 

 S先生やA先生(女子)に関しては、モチーフには無い色を何色も混ぜたり塗り重ねて、偶然出来上がった色味を活かし、モチーフの持つ色を混ぜたり塗ったりして、最終的なモチーフの色にしていく。

 その行為こそを、絵画の基礎だと語り、色を探す行為だと語る。

 見たものを見た通りに描くだけでは、見たもの以上の絵は描けない、等とも語っていて、同級生達もその言葉に同調する。

 人それぞれの描き方もあるだろうが、基礎とか写生という前提の話となると、僕にはその話が納得できないでいる。

 経験上、上手く絵具を扱えない人なども、日本画に限らずにその様な描きかたをする傾向にはあって。

 それなりの技術や経験を持った人について絵画の基礎を学ばないと、その辺りの絵具の塗り重ねや、絵具の濁りに関する考え方は、なかなか身に付かないと僕は思っている。

 こう書き綴っている僕も、中学・高校生あたりで好き勝手に絵を描いていた頃であれば、S先生やA先生(女子)の語る描き方に近い描き方をしていた。

 仮に、その頃にS先生やA先生(女子)の言葉を耳にしていれば、僕もそれ等の話に疑問を持たなかっただろう。

 しかし、入試を通過した画学生として、絵画の基礎を身に付けているという前提で会話をしているとなると、この大学ではどうしても疑問が湧いてしまう。

 この問題を抜きにしても、見たままの様に描かれた写実性の高い絵というは、一般の人では想像も出来ないくらいの訓練や研究や科学や人生経験が隠れている。

 僕が当時に描いていたデッサンや着色写生であっても、訓練や研究の過程では、何度も壊れながら修復させて作り上げた技術であり、傍目に見えるほど単純なものではない。

 この辺りの考え方は、人によって色々とあると思うので、ここで書き綴っていることは、あくまでも僕なりの視点とでも思って貰いたい。

 

 そんな基礎に対する行き違いが、またおかしな状況を作る。

 僕は教員達の処へ、何度も質問を持ちかけていた過程もあって「わからないのは、力がないからだ」「どうせ説明しても、高木には理解できない」と決めつけられていた。

 始まりはA先生(女子)からの指摘で「君はモチーフにある色しか塗っていない」と叱られて、モチーフにない色を塗って、その時点での色を壊すように強要される。

 それに対して、僕は「なぜその様なことをしなければならないのですか」と質問するが、「これはそうする課題であるから、黙って言われたことをやりなさい」等と叱られる。

 そこからも、何度かの質問をするのだが、取り合っては貰えず、声を粗げて怒るばかり。

 そうして仕方なく、指示に従って出来た色合いに対して、僕は「これからどうしたらよいのですか?」と質問しているのだが、そこでK先生(女子)からは「あなたは抽象画をやろうとしている」と叱られる。

 この時を契機に、A先生(女子)は僕に怒りながら次々と指示を出してくる。

 使おうとする絵具の色の選び方を変えなさい、意図的に色を作っていこうとする考え方を辞めなさい、この色を使っていま描いている絵を壊しなさい…等々。

 僕はその度に、質問や反論はしていたけれど、会話上で締め括った内容には、どんなに納得いかなくとも、僕は従っていた。

 そうやって制作上の指示や強要には従っていても、質問や反論する行為を指して『人の話を聞かない』とか『俺(教員)達をバカにしている』というかたちで受け取られてしまう。

 

 僕には悪意などなく、理解できない指示や強要してきたことを、その言葉通りに従っているのだが、結果としてそれが悪い方向に向かう。

 A先生(女子)としては、出来上がった色を壊しては修正してを繰り返して、偶然出来るよい色合いを探りながら制作を進めさせたかった様だが、いつも言葉足らずであった。

 言葉が足りなくても、水彩絵具を使って着色写生をする場合は、そういう描きかたをする以外にないという考えを持っているから、そうすることが常識だと考えて説明を省いてたのだろう。

 それに対する僕は「壊しなさい」と言われてれば言葉通りに絵を壊した処で制作を止め、これからどうさせたいのか、わざわざこうさせたことの意味合いなどをA先生(女子)に質問して求める。

 しかし、A先生(女子)は『日本画の影』の件から、僕から質問を受けることにうんざりしていて、質問に対してまともに取り合うことはしない。

 その時の僕の絵を見たK先生(女子)も、S先生とA先生(女子)から指示を受ける前に描いていた僕の着色写生を指差して、「こういう風に描けるのに、何でこう描かないのですか」と怒り叱ってくる。

 そのことでも、S先生とA先生(女子)は僕に対して「君は、大学へ入ってくる為に必要な力もないのに、この大学へ入学してきた」等と繰り返し語って怒る。

「どうせ高木には、何を説明しても理解は出来ない」

「まわりの生徒を見習って努力して、早くみんなのレベルに追い付いて貰わないと困る」

 教員達から、こんな言葉ばかりを僕はかけられている。

 それを見ている同級生達が、僕をどう見るか、集団心理はどう働くのか、ある程度の想像はつくと思う。

 この頃の僕はまだ、僕に暴言を吐きかけてくる生徒は避け、こういう状況でも普通に会話してくれる生徒を選んで会話をしていた。

 でも、後々にはそうも行かなくなっていき、僕は孤立していく。

 

 それでも当時の僕は、この問題を軽く前向きに考えようとしていた。

 入学してからひと月程度で起きたこの誤解なんて、『すぐに解消できる』とか『絵を志す者どうしなのだから、いつかは必ずわかり合える』等と、当時の僕は思っていた。

 でも、この誤解は最後(卒業)まで溶くことは出来なかった。

 

 最初の印象は3年先まで残る

 接客業等で語られる心理学での話で、最初の印象は3年先まで残ると言われている。

 最初に悪い印象を持たれると、次の場面でよいことをしていても、それはたまたまだという心理が働く。

 逆に、最初に良い印象を持たれても、次の場面で失敗や悪いことをしてしまっても、たまたまだという心理が働く。

 その心理は、3年先まで続く場合もあるという。

 僕のこの問題も4年先の卒業まで、日本画の教員達は「高木は抽象画をやろうとしている生徒だ」等と語り続けてきた。

 これを心理学でもそう語っているから、仕方のないことと思われるかもしれない。

 でも、絵画の基礎を学んできた人達で、ものを見る訓練をしてきた人ならば、そうは思って欲しくない。

 例えばデッサンの訓練で、モチーフに対する思い込みや、まわりに置いてあるものや状況や錯覚に惑わされないよう、しっかりとものを見る訓練をしているではないか。

 大学の教員として、提出物の評価をする者が、特定の生徒を嫌い偏見を持ってしまった為に、その提出物を正しく評価できないとか、それは仕方のない事だと考える事を、僕はどうしても受け入れることが出来ない。

 同時に、『この大学の教員達は、そんな愚かな人達ではないだろう』と、僕は信じようとしていた。

 でも、いま当時のことを思い返してみると、この話ままの愚かな人達だった。