橋本関雪
今回は、むかし興味を持って読み漁っていた、日本画画家のある揉め事の話です。
戦前の画家で、橋本関雪(はしもとかんせつ)という方のこと、聞いたことありますか?
画像元http://succeed21.com/smartphone/detail.html?id=000000001416
画学生の頃、日本美術史の講義のなかで、弟子であった橋本関雪が、師の竹内栖鳳に対して、師匠であることを破門する破門状を叩きつけたという話を聞きました。
それから学校を卒業して暫くして、何気なく読んでいった幾つかの本のなかで、そのことに関係する事柄が書いてある本を見付けたのでした。
もう20年くらい前に読んだ話なので、ここからの話は、幾つかの思い違いもあるかもしれません。
まず、破門状の流れから。
竹内栖鳳の画塾であった竹杖会へ、橋本関雪は知人に進められて入会します。
その画塾の講評会で、橋本関雪は酷評を受けたことに憤慨し、師の竹内栖鳳へ破門状を叩きつけます。
弟子が師を破門するという、いまの時代でも耳にしない、異例なことです。
その後も橋本関雪は、竹内栖鳳への恨みつらみを持ちつづけます。
その思いが具体化したのは、京都新聞の紙面上、橋本関雪自身の書いた竹内栖鳳への中傷です。
「(竹内栖鳳は)中国へ写生旅行に行ったと話題になっているが、あるところから話を聞いていると、日本にいられない事情があって、国内から逃げ出したという話も耳にしている」
といった内容で、何かある度に中傷記事を書き綴り、新聞紙面上で竹内栖鳳を中傷していきます。
これに対する竹内栖鳳自身は相手にせず、何もしないのですが、その息子が痺れを切らし、京都新聞の紙面上で反論していきます。
その京都新聞紙面上での不毛な争いの結末は、橋本関雪の孫の参戦によって終えます。
中傷記事の内容や争いの勝負けというよりも、橋本関雪の孫までもが愚かなことを始めたことで、橋本関雪側も目が覚めたのでしょう。
この新聞紙面上の中傷の過程で、橋本関雪は画壇から相手にされなくなり、孤立し立場を悪くしていきます。
橋本関雪はその孤独の辛さなかで、不思議とよい絵を描いていくのです。
竹内栖鳳は、積極的に西洋文化を日本画に取り込み、日本画の可能性を探っていきます。
それでも、円山派らしさを絵のなかに残していました(本人は、その意図は無かったかもしれません)。
橋本関雪は、四条派の絵をとても上品に描いていきます。
新聞紙面上の言い争いは大人気ないと、僕は少々笑いました。
でも、その橋本関雪の絵は、なかなか良いもので笑えません。
つまらない意地や大人気なさがあっても、孤独で惨めな場面があっても、これだけの絵を描けていることが、逆に絵描きとして面白い存在の様に思えてきます。
画像元http://haps-kyoto.com/events/hakusa-sanso-collection_summer2015_2/
亡くなって随分な時間が経過し、残った記録や本などで学んだり想像しているだけの存在です。
ですから、当時の彼等の本音や考えも、想像でしか考えられないわけです。
その上で、竹内栖鳳は橋本関雪に対して、どの様に思っていたのだろうと考えてしまいます。
竹内栖鳳自身も画業を始めた頃は、画壇から絵に対する多くの批判を受けていました。
日本画に無いものを次々と取り組んできた行為も、晩年に「画壇に復讐したかった」と語った言葉と多少は繋がっていたかもしれません。
当時、主には弟子たちである入江波光・小野竹喬・榊原紫峰・土田麦僊・野長瀬晩花・村上華岳といった者達が、当時の文展のありかたに反発し、国画創作協会という会を作ります。
その動向に、文展に属していた竹内栖鳳自身は、影ながら応援もしていました。
竹内栖鳳と横山大観も、世の中では対立して見られていましたが、その竹内栖鳳の亡くなった時の通夜に、新聞等の報道よりも先に横山大観が駆けつけていた逸話などもあります。
僕個人の考えですが~絵描きは喧嘩して仲悪く見えても、絵を通して解り合えている部分はある様に考えています。
そういう事柄を知っていくと、新聞紙面上で竹内栖鳳が橋本関雪の中傷を相手にしなかったのは、大人だからという話ではない様に考えてしまいます。
僕は「橋本関雪の反発やエネルギーの矛先も、違うところに向いていればなぁ」という感じかたをしますが、竹内栖鳳もそういう考えは多少でもあったのではないでしょうか。
あくまでも、最後辺りの話は僕の妄想ですけどね。