美大の始まりと違和感 No.12
美大の授業のはじまり
美大の授業が始まって最初の半月程で、僕は、気のせいではなく、確実に何かがおかしいという考えが過る。
大学の最初の課題は、テッポウユリの写生と細密描写だった。
モチーフはまだつぼみ状態で、各生徒に一本ずつ配り与えられていた。
その一番最初の課題の制作途中で、日本画の非常勤講師のK先生(女子)が、教室の生徒全員に対してこんな発言をする。
「日本画では、光が当たった結果現れるものは一切描かないでください」
この言葉が、僕の最初の戸惑いと躓きであり、この躓きは、最初は小さなものだと考えていた。
しかし、僕は大学在学中、この躓きより先にある日本画教育を受ける機会を失った。
後々のことをここで語ってしまうと。
教える教員側が、この問題を漠然としか把握しておらず、そこへ質問を繰り返した僕は、拒絶され大学の教育から排除されてしまったのだ。
排除されていく初期の段階で、僕はこの言葉に対して、深く悩んでいく。
この言葉通りに受け取った場合、理論上、それでは絵は描けない。
僕がそれまでに学んできた絵画の基礎や、そこで説明されてきた理屈とも矛盾を含んでいる。
ひとつ例えるなら、多くの美大や芸大等で入試にも設けているデッサンの初歩の話。
モチーフの形や質感や重みなどを捉える為に、基礎の最初は光を追って描く理屈から始まる。
モチーフが形や色や、様々なものを表してくれるのは、そのモチーフに光があたり、そのモチーフが光を反射したり吸収してくれた結果なのだ。
だから、「光が当たった結果現れるもの」というのは言葉通りの意味ではなく、抽象的な意味あいをもって語っている言葉なのだろう。
そのために、「光が当たった結果現れるもの」とは、どこまでを指して語っているものなのか、この言葉の裏側に多くの意味合いを含んでいる言葉なのではないだろうか、僕はそう考えてしまう。
この迷いや躓きから、僕は日本画の教員達からは拒絶され『大学へ入学してくる為に必要な腕を持っていない』と、散々に罵倒されていく。
その教員達の罵倒に同級生達も同調し、僕は孤立し、学生生活はメチャクチャとなる。
時期でいえば、美術大学へ入学した最初の月のうちで、殆んどの生徒が、大学の勝手なんかもわかっていない頃。
そんな早い時期から、僕はこの言葉に疑問を持ち、目立ったり話しかけ辛いという気持ちを押さえながら、大学の日本画教員達へ質問を持ちかけていたのだった。
大学受験の為の基礎訓練の処で、僕は主には洋画の先生に絵画の基礎を教わってきた。
逆にそれまで、日本画をやっている人に接したことはなかった。
躓きの原因はそこなのだろうか…
洋画でいう絵画の基礎と、日本画でいう基礎との間に、ギャップがあるのだろうか…
美大や芸大のランクの様なものから考えても、同級生達の描く絵を見ても、僕自身が劣っているようには考えられなかった。
だから、僕という存在の程度の低さや絵画の基礎技術が不足しているという批判等に関しては、それは誤解や偏見によるものと最初から理解していた。
そんな画学生時代の苦しかった時期のことを、後々のトラウマになっていく出来事なんかを、これから長々と書き綴っていくことになる。